第22章 落花流水 前
ぽつりと溢したそれへ、光秀が頬杖をついた体勢のままで口元を綻ばせる。正直、光秀相手に策を講じてどうこう出来るとは凪自身、あまり思っていないのだが、やられっぱなしは面白くない。むっとした彼女の言葉を受け、瞼を伏せつつさらりと言ってのけた男相手に、つい素で突っ込んだ凪は諦めた様子で吐息を溢し、団子をもうひとつ頬張った。
幾ら食べても飽きない食感や味を楽しんでいると、不意に凪は光秀の唇が微かに艶を帯びている事に今更ながら気付く。そしてその原因を察し、つい眉根をきゅっと寄せれば、凪を飽きる事なく眺めていた光秀が彼女の変化に気付き、双眸を瞬かせた。
「どうした」
「……行きにちゃんと拭ったのに、またついちゃってます」
短く問われた事への返答は憮然としていたが、それは照れ故のものだろう。そう勘付いた光秀が、凪の言わんとしている事に気付き、特に気にした風もない相槌を打つ。
「色はついていないんだろう。なら特に問題はない」
「無駄に唇が艶々してるんですけど」
「気になるなら、お前が拭ってくれればいいだけの事だ」
「な、なんで私が…!?」
御殿の中で一度拭ったグロスが、往来などで交わされた口付けにより、光秀の唇へ移ってしまっていた。英屋(はなぶさや)などではまったく気付かなかったが、こうして唇を注視するとどうにも気にかかる。形の良い唇を艷やかなそれが彩る姿は、光秀の端正な容貌も相俟って妙な色気を惹き立たせるのだ。もしかして、光秀が注目を浴びたのはあれの所為でもあるのだろうか。普段光秀が町娘達にどのような視線を送られているのか、そういった事を気にかけて来なかった故に、凪にはよく分からない。が、何となく嫌な感じがして、何故、と文句を言いながらも、つい考え込んでしまう。
「………動かないでくださいね」
「ああ」
しばらく無言を貫いた後、色々思うところがあったのだろう凪が念押しの如く告げた。かけられた言葉に、つい吐息混じりの笑いを溢した光秀が同意を示す。そうして凪が右手を伸ばし、親指の腹で光秀の唇をそっと拭った。