第5章 摂津 壱
「どのような臭いだ?」
引き寄せた黒髪へ唇を寄せる風を装い、短く問いかけた。
その際、顔を上げた拍子に辺りを視線でぐるりと見回す事を忘れず、気配を探る。
羽織へ顔を寄せていれば、不快な臭いを塗り替えるよう光秀の薫物の香りが凪を包んだ。上品で心地よいそれにより、幾分落ち着いたらしい彼女は言葉を探して、やはり感じたままを口にする。
「錆びた臭い…です。なんか、焦げたような感じもするんですけど。どこからというより、町全体に広がってるような…」
「…ほう。どうやらお前の鼻の利きは俺の想像以上らしい。しかし、三年前の爪痕がいまだに残っているとはな。あるいは別の理由があるのか…」
凪の曖昧な言葉を上手く汲み取ったらしい光秀が、珍しく心底感心した様子で町中へ巡らせていた視線を彼女へ戻し、片眉を持ち上げた。
やがて小さく呟きを零すも、不安げな様子を宥める為、再度髪へ唇を寄せた後で腕の位置を凪の細く頼りない腰へ戻す。
「三年前の爪痕って、なんですか?」
「…いや、お前が気にする事ではない。それよりも、あの店仕舞い途中の小間物屋を覚えておけ。藍染暖簾の大店(おおだな)だ。これから向かう会談場所はあの店の通りを横切る」
「横道に入るって事ですよね、目印に覚えておきます」
質問をサラリと流され、物言いたげな表情をするも、目印となる場所を示されては意識を向けないわけにはいかない。他よりも大きく立派な店構えのそれを見つめていると、不意に暖簾をしまい込んでいた商売人らしき男と目が合った。
「旦那様方、もしやどこぞから来なさった旅の方ですかい?」
よもや声を掛けられるとは思わず、一瞬驚いた風な凪を他所に光秀は実ににこやかな人の良い様子で頷いてみせる。
「ええ、実は山城国へ向かう途中だったのですが、何せ二人旅なものですから明るい時分に向かおうと思いまして。近頃は摂津から隣国に向かう奇妙な行列が見られるとも聞きますし…」
(誰…ッ!?)
幾分か高めの柔らかい声色は好青年のそれだ。突如光秀が変貌した様を目の当たりにした凪は、些かぎょっとしたように男の顔を見上げた。