第22章 落花流水 前
「支度が終わった頃かと思い、声をかけたが返事がなかったからな。勝手に入らせて貰った」
「返事してもしなくても勝手に入るじゃないですか」
「まあそう言うな。化粧台の鏡にお前の【目】が映っていたのを見て、こちらを向かせたという訳だ」
「あ、だから私、こっち側向いてたんですね」
【見た】ものが衝撃的過ぎて気にかけている余裕すらなかったが、よく考えれば凪の身体は化粧台の方ではなく、横向きになっていたのである。光秀が入って来て、化粧台の方から振り向かせたのだと思えば納得だ。疑問が解消されたところで落ち着きを取り戻し、ふと光秀の方を見ると彼の形の良い唇にほんのり薄くグロスが移ってしまっている事に気付く。先程軽く口付けられた所為だろう。
「もう光秀さん、ついちゃってますよ」
「…ん?」
少し艶の乗った唇は、それはそれで光秀に限っては何故か異様に似合うのだが、そのままでは外へ出られまい。わざと怒ったような風で膝を擦り、相手へ近付くと凪が片手を伸ばした。
「動かないでくださいね」
「ああ」
じっと光秀を見つめ、指を伸ばせば男が長い睫毛を目の前で伏せる。整った面立ちが自らの真正面で無防備に瞼を閉ざす様につい見惚れ、すぐさま我に返った凪は親指の腹で光秀の唇に付着していたグロスを拭った。
「はい、いいですよ。色付きじゃなくて良かった」
幸いグロスは透明な艶出し用のものであるから、軽く拭ってしまえば問題はない。凪の声を耳にして瞼を持ち上げ、すぐ傍にある彼女を映した光秀は、改めて正面から捉えた連れ合いの姿に眼を眇める。元々大きめな猫目が強調される、彼女いわく現代風な化粧(けわい)は眸を縁取る形で線が引かれ、長い睫毛が艶を乗せていた。唇はぷっくりと柔らかそうな桜色をしており、先程凪が拭ってくれたものが艶々と光り、思わず触れたくなる。
(……外へ連れ出すのが少々惜しいところだが)
とは言え、ここまで頑張ってめかし込んだ相手を御殿に留めるというのはなかなかに酷というものだ。少しずれてしまった芙蓉の簪を直してやりながら、光秀は静かに立ち上がり、凪へ片手を差し出す。