第21章 熱の在処
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静まり返る亥の刻(22時頃)、自室で手元の燭台と文机付近にある行灯の灯りのみで書簡へ向き合っていた光秀は、一度正面へ視線を投げた。
夜とはいえ、文月の安土は少し蒸し暑い。縁側の障子を開けている為、そこから風が入り込んで来る事もあり、幾分暑さを緩和してくれてはいるが、これから少しずつ寝苦しい夜がやって来るだろう。凪の部屋にある縁側の窓も少し開けてはいるが、完全に襖を閉め切るのは得策ではない。
よって、風通しの為にも光秀の自室と凪の部屋を区切る襖を一枚だけ開けているが、それでは彼女の姿を認める事は出来なかった。普段ならば顔の辺りが覗くそこは、今日に限っては頭の向きを反転させている為、足元のみが見えている状態である。
あれからしばらく、凪の熱は一向に下がる気配がなかったが、夕餉後に飲ませた薬湯の効果が出て来たのか、戌の刻(20時)辺りくらいから少しずつ額の熱さが穏やかになって来ていた。家康の見立て通り、やはり知恵熱の類いだったらしく、他に目立った症状が出ていない事に安堵した光秀は、うつらうつらと眠そうにしていた凪の為に灯りを消し、自室へ移動したのである。
昼餉の折は薬湯の為に、と無理矢理胃の腑に物を収めていた印象だったが、夕餉の粥はそれなりに食欲が戻ったのか、自主的に食べていたようなので明日辺りにはけろりとしているかもしれない。どちらにせよ、凪の眠りの邪魔をする訳にもいかず、正直離れがたくはあったが、一度自らの文机へ腰を下ろしたのだった。────何故なら、凪は鼻が利く。
(墨の匂いは嗅ぎ慣れている所為で気にならないだろうが、これは別だろう)
光秀が取り出したのは、日中に九兵衛と言葉を交わした際、話題に上がった一枚の文である。折り畳まれた文の表面に、三枚の桜の花弁、そして甘ったるく男を誘う媚びた香り。文の中身は流暢で流れるかの如く達筆な文字が並んでおり、何とも無難な恋い慕う言葉が綴られていた。特に深読みせず、表面だけを捉えたならば、ただの恋文だが、光秀にはそれが自身を誘い出す果たし状にも似たものに見える。