第5章 摂津 壱
本当は、ここまで真っ直ぐに褒められるなど思ってはいなかった。
のらりくらりと躱していく光秀の事だから、からかいの言葉を投げてまた自分を翻弄するのではないか。そんな風に思っていたからこそ、素直に喜んでしまうのは憚られるような気がしたのだ。
冗談を交わすよう、凪が言う。
凪の一言を耳にした光秀は、純粋な羞恥や喜びだけではない、どことなく複雑そうな色を彼女の姿に垣間見ると一度唇を閉ざした後で、瞼を伏せたまま肩を竦めた。
「…まったく、素直じゃない仔犬だ」
──────────…
夕暮れを通り過ぎ、夜の帳を下ろし始める刻限。
日が長い事もあって辺りは闇色ではなく、それに近い薄灰色に満ちていた。
光秀の言う、泳がせていた鼠との会談とやらに向かうと言い、凪を伴って宿を後にしたのはつい先程の事だ。
家路を急ぐ人はまばらで、まだ宿に向かっていた時には比較的賑やかな色を見せていた店は、ほとんどが店仕舞いをしている途中である。
開いているのは数件の食事処のみで、先日訪れた山城国の町とはまったく異なる雰囲気に凪は怪訝な色を過ぎらせた。
(─────…ていうか、この状況なに!?)
そんな中、心中で声を上げた凪の疑問はそもそも、宿を出掛ける直前まで遡る。
────待て、後ろの衿がよれている。直してやるから少しじっとしていろ。
光秀にそう言われた凪は自身の着方が悪かったかと反省し、言われた通りに男へ背を向ける形で大人しくしていた。
後ろへ回った光秀は項の辺りの衿を片手で掴んで、そのままぐい、とずらすようにして後ろへ着物を引く。
驚きに目を瞠る凪を他所に、後ろ首の辺りを調整するよう衿の位置や前側の着物の併せを直した後、背後から低く控えた声で囁いた。
────宿で言った事を覚えているな?お前は俺の言う事を聞いて、抵抗なく身を委ねていろ。
直された着物の衿は、後ろ側だけ肩甲骨上部辺りまで下ろされ、色のある艶めいた着方をさせられていた。無論打ち掛けを羽織っている為、首裏がすべて見えるわけではないが、それでもかっちり着込んでいた時とはまったく異なるそれと、落とされた声に反論するのは凪の性格を思えば必然である。