第5章 摂津 壱
なんとか己の感情を必死に落ち着かせ、瞼から力を抜いた凪は極力目の前にいる男の存在を意識しないように努める。
ぎこちなくも力の抜けた瞼を再度ひと撫でした後、指先を離した光秀は筆先が紅に染まったそれで、線を引くよう眦を艶やかな色で彩った。
筆先を貝の縁で整えつつ紅の量や濃さを見ながら筆を動かし、両方の眦を染め上げた後、手を離して声をかける。
「開けてもいいが、まだ乾いていないからな。化粧を崩したくなければ目尻には触らない事だ」
「…わかりました」
緊張した様子で瞼を持ち上げた凪は、当然ながら自身の顔を確認出来ない。元々凪の猫目がちなそれはつり目で大きいが、眦に紅を差す事でいっそうその様が強調されている。
色を乗せただけだが、だいぶ印象の異なる様子に光秀は目を瞬かせた。
元々化粧っ気がない時でも整った顔立ちではあるが、色を乗せれば化粧映えするのだろう、更にそれが際立つ。
「次は紅だ。このまま小筆で差してやっても良いが…小指で差すという方法もあるぞ。さて、お前はどうしたい?」
取り出した懐紙で、痛めないよう小筆を拭いながら光秀が囁いた。
化粧台の上へ一度拭い終えた小筆を置き、窺うように首を傾げて見せた男は自身の小指を凪の下唇へ軽くあてがい、そのまま自らのそれへ指の腹を軽く触れさせる。
「…ッ!ふ、筆にしてください…っ」
熱のない指先の感覚が、いやにはっきりと下唇に残ったような心地になり、それが目の前の薄い男の唇に触れる様は酷く扇情的だ。
堪らず声を上げてみせれば、光秀は面白そうに口角を持ち上げると素直に指先を下ろす。形どられた笑みがどうにも憎らしい。
「それは残念だな。お前の唇に合意で触れられる、良い口実だと思ったんだが」
(戦国時代の男の人ってみんながっつり肉食系だった!?それとも光秀さんだけ異常なの!?)
絶句を通り越して震える凪を面白そうに見やった後、男は小筆を取って筆先に紅を薄く乗せる。
無防備に薄く開かれた淡い色の唇へそっと筆を這わせながら、相手が喋れないのをいい事に揶揄を投げた。
「どうやら仔犬には、大人の駆け引きはまだ早かったらしいな」