第5章 摂津 壱
「白粉はありますけど、もっと肌に近い自然な色の物になりますよ。化粧道具もたくさん種類があって…バッグの中に私が普段使ってるやつも入ってました。せめてそれがあれば自分で出来たんだけどなあ…」
「ほう…」
問い掛けに答えながら、バッグの中に入っている化粧ポーチの存在を思い出して些か残念そうな声を漏らした凪を前に、光秀は何か思案げに目を瞬かせる。
片手を自然な所作で持ち上げ、指先で凪の揃えられた前髪を軽く横へ払った後、傍にある二枚貝の入れ物へ手を伸ばした。
「女から化粧の道具を取り上げるとは、それはすまない事をした。…では今度、お前に荷を返した際にはのちの世の化粧というものを見せてもらおう。仔犬がどのような姿に化けるのか、中々に興味深い」
「なんか言い方の所為で複雑ですね」
さらりと言われた男のそれは一聞するととても失礼な気がするものだったが、穏やかな調子の音には普段見え隠れする揶揄の色が感じられなかった。
まるでしっかり化粧した姿を見てみたい、と好意的な意味で言われたような心地になった凪は心の内で考えを振り払い、気恥ずかしさをやり過ごす為に突っぱねた言葉を発する。
逸らした視線が落ち着かず、畳や膝上をさ迷っている凪の様を目にし、そっと微かな笑いを零した光秀は蓋を開けた入れ物の中に収まる紅色へ、握った小筆の先を優しく這わせた。
「ほら、目を閉じろ」
艶すら感じる低音が鼓膜を震わせた。
たった一言で匂い立つような男の色気をまとわせる光秀を前に、半ば反射的に目を閉ざして身を硬くする。
芸能人ならばともかく、一般人の凪が成人式などの特別な催し以外で誰かにメイクをしてもらう事などそうそうない。ましてそれが色気の塊であるならば、尚のこと。
「…こら、瞼に力を入れるな。紅がよれてしまうだろう」
「…ッ、」
視界が閉ざされた所為で過敏になった鼓膜が鮮明に音を拾う。
ぴくり、と肩と瞼が連動するよう小さく跳ねるのも仕方のない事だ。無意識に力んでしまっていたらしい凪の白い瞼を、冷たい男の指先が宥めるように撫ぜる。
早鐘を打つ鼓動が触れられた場所に移動したかのようだった。