第21章 熱の在処
「光秀様」
それは九兵衛の声だった。光秀の名だけを呼んで来るという事は、この場ではあまり話せない事か。少し待て、と襖の前に居るだろう九兵衛に声をかけ、光秀が一度視線を続き部屋の方へ向ける。やがて、一度瞼を伏せた男は光忠の方へ顔を向け、静かに命じた。
「光忠、俺が戻るまでしばらく凪の様子を見ていろ。今は眠っているが、何か変化があればすぐに報せを寄越せ」
「…畏まりました。それで、凪は何処に?」
「向こうだ」
「………は?」
熱が相当高いと言うならば案じるのも当然と言えよう。光忠は主君の命を拝受するよう低頭して瞼を伏せつつ、肝心の凪の居場所を問いかけた。すると、主君は先程自らが出て来た襖の方へ向け、事も無げに言う。正直、主君相手に不敬だとは思ったが、つい素の反応を返してしまったのは致し方ない事だ。
気に入り、お傍に召しているとの噂の通り、本当に傍に置いていたとは。色々突っ込みたい気もしたが、主君の用事を邪魔する訳にもいくまい。
「……承知致しました。御留守の間、ここで凪の様子を見ております」
「すぐに戻る」
恭しく告げた重臣に対して短い言葉をかけた光秀が、布擦れの音を微かに鳴らし、すらりと立ち上がった。低頭したままでいる光忠の横を通り、背後にある襖を開けた後、そこに控えていた九兵衛に目配せした光秀が歩き出す。静かに一礼した家臣が襖を閉ざした音を耳にし、体勢を戻した光忠が閉ざされた続き部屋の襖へ顔を向けた。
「……さて、あの女は眠っていると言っていたが」
様子を見ていろ、とは即ち容態の変化をつぶさに観察せよ、という事に他ならない。主君が傍に召す女の寝姿を見るのはどうかとも思うが、よくよく思い返せば情交を既に見ているのだから、今更である。気を取り直した光忠が閉ざされた襖をそっと開いた。
不意にふわりと鼻腔をくすぐったのは、光秀の薫物と同じ香り。それから、薫物とは少し異なる仄かに甘い香りだ。その甘い香りは凪の傍に居る時、時折感じる事がある為、おそらく彼女自身の香りなのだろう。女の部屋、と呼んでまったく差し支えない調度品が置かれた一室は、綺麗に保たれていた。