第5章 摂津 壱
二人を母屋へ案内した後、宿主は恭しく頭を下げてその場を立ち去って行った。その背が完全に見えなくなった後、光秀は背後に居る凪を振り返り、その表情を見て内心苦笑する。
(…まだご機嫌斜めか。今朝のあれは少々戯れが過ぎたようだ。反応が新鮮で、俺もつい興が乗ってしまったからな)
今朝の添い寝事件の後、凪はすっかり機嫌を損ねてしまったらしく、先日まで目にしていた顰め面よりも更に憮然とした色を浮かべていた。
会話は成立するが、声色に険が含まれていて明らかに素っ気ない。小娘がへそを曲げたところで、さして気分など害さない光秀にとっては、その他愛もない怒りの姿も小動物の反抗期にしか見えていなかった。
(まるで懐かない猫のようだ)
安易に手を伸ばせば、不機嫌な猫に爪を立てられかねないと、暫くは凪の好きにさせていた光秀だったが、目的地の摂津に足を踏み入れてしまったのだから、そうも言っていられない。
部屋の襖を片側だけ開き、室内を見回すと床の間付近に置かれた文机の上には、九兵衛が用意した荷が置かれていた。
「小娘、そういつまでもむくれていないでそろそろ機嫌を直せ。昨日とは違って、あまり休憩を挟んでいない所為でお前も疲れただろう。少し座って休んでいろ」
「…わかりました」
さすがにいつまでも不機嫌でいるのも大人としていかがなものかと思ったのか、凪が硬い調子ながらも素直に頷く。
促すようにして先に彼女を室内へ通すと、自身も次いで足を踏み入れ、部屋の隅に置かれた座布団を二枚手にして一方を部屋の中央辺りへ置いた。
それと向かいあわせの位置、間に盆が一つ入る程度の距離を空けてもう一枚の座布団を置いた光秀は、小さく紡がれた礼に短い相槌を打ち、一度部屋を後にする。
やがて部屋を出た先にある厨へ足を踏み入れれば、そこに居た男の姿を認め、木戸を後ろ手に閉ざした光秀が途端に真摯な色を眼差しへ宿した。
「御苦労だった、九兵衛。早速報告を聞くとしよう」
「はっ」
光秀の前にさっと片膝を付いた男は軽く頭を下げた後、控えた声量を発する。釜戸には火が灯され、そこに掛けられた茶釜の中では湯が掛けられている事が窺えた。