第20章 響箭の軍配 参
水の中に混ぜられた毒の匂いは、凪が嗅いだ事のある薬草の類いではない。毒の特定が出来ない限り、解毒は難しいという事は光忠とて分かっている。悔しげに呟く凪の拳が堅く握られた様を目に、掴んだ手首をするりと離し、光忠はあくまで淡々と告げた。
「…毒とて戦術の一つ。陣を混乱に陥れれば本隊へも少なからず影響を及ぼすからな」
それは、幾多の戦いを目にした男としての、努めて冷静な判断に他ならない。天幕の外では、幸い水を飲まずに居た兵達により、水瓶の水を呑むな!という忠告の声が響き渡っていた。
苦しげな彼らの様子を見回した凪は、何とか解毒の術を探そうと身を翻しかけた。しかしその時、天幕内に横たわっていた一人の兵が力なく声を発する。
「姫、様…」
か細いその音を拾い上げ、凪が彼の元へと近付いた。兵は近付いた凪に向かい、傍らに置いた一枚の文を取り出すとそれを彼女へ差し出す。男は、前日天幕内で他の兵達にからかわれていた、信長の本隊へ最近所属されたという者だった。
「あの、これは…?」
「分かりません、先程医療兵の誰かがこれを落として行きました。後で返そうと思い、持っていたのですが…私の命が尽きる前に、貴女様へお預けさせて、いただきたく…」
息も絶え絶えといった男の震える手から文を受け取り、凪が不意に過ぎる違和感へ目を瞬かせる。じっと男の顔を見つめ、そうして唇を堅く引き結んだ彼女は苦しげに告げた。
「……あなたからは、本物の血の匂いが…しない」
凪が言い切ると同時、傍に控えた光忠の抜刀した白刃が男の喉元へ突き付けられる。口元に滲む赤とその表情を見やり、菫色の双眼を鋭く眇めた。刀を突き付けられた男は微動だにする事なく、ただ無表情のままで凪と光忠を見つめている。やがて、身体を震わせる様をぴたりと止めた彼は、ゆっくりとその口元を歪めて笑った。
「………なんだ、気付かれてしまいましたか。折角昨日から上手く織田の兵に馴染んでいたというのに、残念です」
既に昨日から、否、開戦前から男は信長の本隊に紛れ込んでいたのだ。そうしてわざと致命傷ではない、けれど軽傷では済まないような傷を負い、負傷兵の中へ紛れ込んでいたのだった。
そうして虎視眈々と機会を窺っていたのである。