第19章 響箭の軍配 弐
凪を拘束した兵を撃ち抜いた時、振り向いた彼女の頬に返り血がついた事も知っている。おそらく雨ですっかり流されてしまったのだろうそこへ、まるで吸い寄せられるかの如く、腕を持ち上げた。
(すぐにでも拭ってやりたかったが、それを望む俺の手もまた、なかなかに血まみれだ)
それ故か、指先は凪の肌へ触れたくて仕方がなかったにも関わらず、光秀は白い着物の袖口を使い、直接肌に触れる事なく凪の頬を拭う。
男が拭ったのが、返り血を浴びた方の頬だと気付いた凪は、雨雫を拭う意図ではないまま、袖口で触れて来た事を悟り、ゆっくりと目を瞬かせた。
(……私に、自分の手で触らないようにしてる?)
心の内に湧き上がった疑問へ無理矢理蓋をすると、凪は一歩後退する事でもう大丈夫だという意図を暗に伝える。そうして身を翻し、振り返らないまま天幕の入り口へ向かった。
「それじゃ、私仕事に戻りますね。光秀さんも適度に休まないと駄目ですよ」
入り口前で一度立ち止まり、光秀の方を振り向かないで告げた彼女はそのまま雨が降る表へと姿を滲ませる。振り返ってしまえば、じくじくと痛む胸の内に気付かれてしまいそうで怖かったのだ。
天幕内へ残された光秀は、もう姿の見えない凪を追うよう、視線をそっと流した。彼女が触れた箇所は、例え布越しであったとしても暖かく、じんわりとした熱を男へ伝えている。
「……休むべきはお前だろう、馬鹿娘」
伝えるべき相手が居ない空間で落とされた、かすれた低い光秀の声は、遣らずの雨になり得ない雨音へとかき消されるだけだった。
それから数刻後、雨の所為で松明(たいまつ)すら満足に焚く事の出来ない後方の陣内に、見張りの鋭い声が響き渡った。
「敵の斥候だ!姿を確認したのは一人だが、他にも潜んで居る可能性がある!!探せ!!」
夜番へ当てられていた者達以外にも、天幕へ引っ込んでいた無傷の兵達が一斉に飛び出して来る。自らの天幕内で九兵衛、光忠と共に明日についての話し合いをしていた光秀は、すぐさま刀の柄へと手をかけ、その場を飛び出した。