第19章 響箭の軍配 弐
「まさか姫様を狙っているのか?止めとけよー、あの光秀様が恋敵なんて笑えないぞ」
楽しげに笑う兵達の中で、問いを投げた男だけがしばらく天幕の出入り口を眺めていたのだった。
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光秀によって手首を引かれ、やって来たのは凪に与えられた天幕である。
天幕の中央付近で向かい合う形となった凪は、不意に離された手首へ視線を落とし、それまで自身のそこに触れていた男の指がひんやりと冷たくなっていた事へ、案じるよう眉尻を微かに下げた。
光秀は四半刻(30分)程前に陣へ戻って来ていたが、兵達へ指示を幾つか飛ばした後、九兵衛と共に自身の天幕へ戻り、何かの会議をしていた筈である。光忠も呼ばれてそちらへ向かった事と、たまたま通りがかった八瀬が教えてくれていた為、間違いは無い。先程凪が居た天幕と、光秀の天幕とはそこまで距離はなく、ここまで雨に濡れている姿は些か不自然だ。もしや何か他に仕事をしていたのだろうか。
いずれにせよ、せめて顔や髪の水気は拭った方がいいと、新しい手拭いを取り行く為動き出そうとすれば、しばし無言のままでいた光秀が口を開いた。
「……どうやら、怪我はないようだな」
金色の眼を真っ直ぐに注がれ、傷の有無を確認されていたらしい凪は、光秀が紡いだそれへおもむろに頷いて見せる。
「大丈夫ですよ。光忠さんも守ってくれましたし、光秀さんだって、」
「凪」
微かに笑って答えた凪の、音にしようとした言葉をさながら遮るかの如く、名前を呼ぶ事で彼女の口を噤ませた光秀は、透明な雨の雫が銀色の毛先から滴る事も気に留めず、真摯なままの面差しで問いかけた。
「何故、戦場へ下りて来た」
いつも彼女が耳にする、しっとりと低く艶のある声には、緩急のない色しか窺えない。静かな音は決して凪を深く責めている訳ではなかったが、告げずにはいられないといった様子が見て取れたような気した。
逸らす事を許されない金色の眼を前に、凪はふと唇を引き結ぶ。光秀に助けられた時点で、彼が自分に何を言うのかは大まか理解していたが、それでもあの時の選択を自分で間違っているとは思わなかった。故に、凪は短い問いに対して、落ち着いた声色のままで返答を紡ぐ。