第19章 響箭の軍配 弐
そこは、凪を麓で拘束した男の返り血が付着した場所である。幸いと言うべきか、彼女に付着した真っ赤なそれは降りしきる雨の雫によってすっかり洗い流されていた。今ではその残滓すら残っていない。しばらく無言のままで雨滴しか浮かんでいない手の甲を見つめていた凪だったが、意識を切り替えるかの如く緩慢な瞬きをひとつして、気を取り直した様子で薬が収められている木箱の蓋を開けた。
「…そういえば、この箱は開けないようにって言われてたけど、何なんだろ」
木箱の中から目当ての薬を取り出した後、蓋を閉めながら凪は隣に置かれた黒い木箱を見る。光秀から医療兵達へ、絶対に開けてはならないと厳重に注意されている木箱の中身は、当然光秀以外誰も知らない。不思議そうに双眸を瞬かせた後で呟きを溢した彼女の毛先から、ぽたりと小さな雫が落ちた。
少し開かずの箱へ近付いていた凪は、その雫が箱の上に落ちそうになったと同時、咄嗟に身を退く。
「もしかしてこれ、黒い木を使った箱じゃなくて、黒い何かを塗ってる?」
よく見ると黒い木箱の表面には僅かな塗りムラのようなものがあった。ますます雫を溢さなくて良かったと安堵した凪は、光秀の考えている事であれば、今回の作戦に必要なのかもしれないと思い直し、そのまま身を翻して天幕を後にする。
腕に抱えた薬が濡れないよう着物の袖で庇いつつ、凪は負傷者が収容されている天幕の一つへ入って行った。
「塗り薬と張り薬、追加の分を持って来ました。ここに分けて置いておきますね」
「凪様…!そのように雨に濡れられて…一度天幕でお休み下さい。夏とは言えど、雨に打たれ続けるのはよくありません」
中年齢であろう金瘡医(きんそうい)が驚いた様子で声を上げた。元々僧であり、現在は金瘡医として仕えている男は、比較的古株と言える部類であり、大陸に渡って医術について学んだという事もあって、良い縫合の腕を持っている。
雨が降っているにも関わらず、天幕と天幕を忙しなく行き来している凪を案じ、清潔な白い手拭いを差し出してくれた。