第18章 響箭の軍配 壱
(いつもはあれをかけないと、ぼんやりしたはっきりしない味で、美味いとも何とも思わないのに)
普通に美味いと、そう思ってしまった事実に内心で密やかに動揺する。しかし、それを素直に口にするなど出来る筈もなく、家康は何ら気にした風を見せずに、ああと短く相槌を打った。
「天幕の中に忘れて来たから」
「そっか。さすがにいつでも持ち歩いてる訳じゃないよね。私、持って来ようか?」
「……いや、面倒だから別にいい」
不思議そうな面持ちながら、勝手に人の天幕に入るのもどうか、と考え至った凪はしばし双眸を瞬かせていたが、納得したらしく、そっかと零す。
本当は袂の中にいつもの入れ物が入っていたが、何となくそれを取り出す気にはなれなくて家康はもう一口、握り飯を口に含んだ。そうして咀嚼しながら隣へ意識を向ければ、凪が自分の分へ手を付けていない事が窺える。
彼女の瑠璃紺色の袴の上に置かれている三個の包みは、自分と光忠、そして光秀のものだろう。もしかして、光秀が来るまで食べないつもりだろうか。そう考えた時、家康の中でちくりと小さな針が刺さったような感覚が走り、咄嗟に凪から顔を背けた。
「凪」
刹那、前方から彼女の名を呼ぶ低くしっとりとした声が届く。
それを聞いた瞬間、凪は幾分弾かれた様子で顔を持ち上げた。その表情をつい垣間見てしまった家康は、そっと再び顔を逸らす。凪の面持ちは嬉しさと安堵を滲ませたようなもので、自分には向けられた事のない表情だった。
「てっきり訓練の時のように尻尾を振りながら駆けて来るかと思ったが、宛てが外れたな」
「だから人を犬みたいに言わないでください。空気くらいちゃんと読みますよ」
凪の左隣りへ腰を下ろした光秀は、その後ろに光忠を伴っている。彼は主君の隣、その僅か後方に腰を下ろした。
以前、演習場で同じようにからかわれた事を思い出し、緩く笑みを浮かべる光秀の表情を目にした凪が不服とばかりに眉根を寄せる。
凪と光秀がこうしてゆっくり言葉を交わすのは、行軍の道中以来である。