第4章 宿にて
「珍しいな、食事以外の事でお前が俺に口を出すとは。小娘に絆されでもしたか?」
「お戯れはお辞めください」
笑いを混じえた光秀に対し、九兵衛は眉尻を下げると瞼を伏せる。
光秀の命で、置き去りにされた凪を背後で見極めていたのは九兵衛自身だが、その彼が同情してしまう程、凪はあの時ひどく狼狽していた。
間者の線など微塵も感じられない、ただの町娘のように辺りを不安げに見回していた姿が脳裏に思い起こされる。
「絆された…というよりは、寧ろ凪様に申し訳なく思っております」
自身の主の行いを代わって詫びたい気持ちで見ていた九兵衛が、言わんとしている事など察している光秀は部下の言葉に何も言わず、吐息を漏らすようにして笑った。
「しかし、あの時の凪様には正直驚かされもいたしました」
「ほう?」
次いだ部下の言葉に、ふと興味深げに首を傾げた光秀が双眸を見開く。瞳に過ぎる興味の色を目にしながら、九兵衛は夕暮れ時の出来事を振り返った。
「暫く不安げに辺りを見回されておりましたが、急に何かに導かれるよう歩き出されまして…幾度か立ち止まられた後、進まれた先が光秀様の元でしたので」
心底不思議そうな部下の顔を目にする事は滅多にない。珍しいものを見たものだと内心で笑みを深めた光秀だったが、九兵衛の疑問はもっともだった。
その理由を知っている光秀としては、彼の語る言葉の通りに想像を巡らせ、込み上げる愉快さに口元を綻ばせるばかりである。
「一体どのようにして光秀様の元まで行かれたのやら…お聞きになっていらっしゃらないのですか?」
─────…っ、だから言いたくなかったんです!
光秀の薫物の香りを辿ってやって来たと告げた凪の、羞恥に染まる姿を思い出す。
恐らくあまり人には言いたくないであろう特技とも言えるそれを、九兵衛に教えてやる気にはどうにもなれず、光秀は首を捻る部下を一瞥しながら、口元へ片手の甲を添えたまま喉奥で低く笑いを殺して呟いた。
「……さて、どうだろうな」