第17章 月に叢雲、花に風
家康を見送ってから御殿の中へ戻ると、履物を脱いで草履を揃え、自室へ戻るべく足を踏み出そうとしたが、その瞬間、視界へ映り込んだ男の姿に双眸を瞠る。
「光秀さん…もしかして待っててくれたんですか?」
廊下の壁に背を預け、胸の前で腕を組んでいた光秀は伏せていた瞼を緩慢に持ち上げて凪を映し、彼女の驚いたような問いかけへ微かに口元へ弧を描いた。
「…お前がその小さな頭で余計な事を考え、落ち込んでいるかと思ってな。迎えに来た」
穏やかな声色を耳にすると、それまで何でもないような素振りを見せていた彼女の面持ちがほんの僅かに歪む。咄嗟に顔を伏せ、真っ直ぐに注がれる視線から逃れると廊下を一歩踏み締めた。その様を無言で見やり、やがて身を預けていた壁から背を離した男は緩やかな足取りのままで凪へ距離を詰める。目の前で立ち止まり、俯く頭へ片手を乗せた。
「今日はもう休め。明日は朝から登城する」
「…はい」
告げた言葉に対して大人しく頷いた凪だったが、足が廊下の板間に縫い留められてしまったように動かない。それは単なる感覚の問題で、実際にはそのような事はないのだが、それでも凪は足を踏み出す事が出来なかった。
自分がここに留まっては、光秀とていつまでも休めないというのに、頭で分かっていても、心がなかなか追いついて行かない。
頭へ置いていた手を下ろし、光秀が静かに身を翻す。やがて俯いたままであった凪の目の前に、大きな手のひらが差し出された。
「おいで、部屋へ戻るぞ」
いつもと同じ、光秀の白く大きな手のひらを目の当たりにして、凪は微かに目を瞠る。吸い寄せられるかの如く、自然に持ち上げた彼女の手が光秀の節立った指へ触れたと同時、そっと握り込まれるようにして繋がれた。決して強い力ではなかったが、まるで導かれるかのように、それまで縫い留められていた足が動く。白い袴の裾を静かに翻し、自室までの道のりを穏やかな足取りで進みながら、不意に凪が顔を上げた。
「なんで分かったんですか?私が落ち込んでるって」
「……ん?」