第17章 月に叢雲、花に風
あの毒舌で滅多に人を褒める事がない家康からの言葉につい綻ぶような笑みを浮かべた凪を視界の端へ捉え、家康はいつの間にか早鐘を打つ音がいっそう煩くなって来ている事に気付き、眉根を不機嫌そうに寄せた。
「にやにや笑い過ぎ」
「だって、なんか嬉しくて。ありがとうございます、家康さん」
「─────…家康」
「え?」
気恥ずかしさをやり過ごす為に告げた皮肉も今の凪の機嫌を損ねるには足りない。はにかんで笑う彼女が口にした己の名が未だに敬称がついたままの事実へ一度瞼を伏せ、言い直させるかのように告げた。一瞬意味をはかりかねた様子の凪が首を傾げれば、わざとらしく溜息を漏らして家康がちらりと視線を投げる。
「名前、家康でいい。敬語も要らない。いちいち畏まられるのも面倒だし、そもそもあんた時々敬語崩れてるし。だったらいっそ、普通にしたら?」
「…でも、いいの?」
「良いも何も、俺が言い出したんだから良いに決まってるでしょ」
「…うん、ありがとう家康」
ぶっきらぼうながらに告げられたそれへ、凪はやがて嬉しそうに笑った。闇の中でもはっきりと見て取れてしまう彼女の表情を逸らした視界の片隅で捉え、家康はぎゅ、と押されてしまいそうな胸の奥の感覚に内心で眉根を寄せる。
やがて瞼を伏せた後、いつまでも外へ凪を引き止めている訳にはいかないと思い直した家康はおもむろに身を翻した。
「それじゃ、そろそろ帰る。……おやすみ、凪」
「おやすみ、家康…!」
凪が片手をそっと振った。小さな白い手が自分に向けてそうされているのを見やり、家康はゆっくりと足を踏み出す。背へしばらく送られる視線を感じながら、夜空に向かって吐息を溢した。胸の中で早鐘を打つものは、凪から離れてしまえば容易に治まるものだと思っていたというのに、どれだけ距離を重ねても、瞼を閉ざすと彼女の声や表情が浮かび上がり、何かを予感させる命の音は、しばらくけたたましさを控える事はなかった。