第17章 月に叢雲、花に風
凪へ正面から向き直る形になり、短く告げた後で彼女は些か慌てた様子で片手を上げた。その手が髪へ届く間際、持ち上げた家康の指先が彼女の横髪に触れる。指を通し、ゆっくりと下へ流しながら梳き下ろすと、引っ掛かりなくするりと艷やかな黒髪が指の間を滑った。一度梳いてしまえば、呆気なく終わってしまう行為を、家康は意味もなくもう一度繰り返してしまったところで、我に返る。腕を緩慢に下ろし、心の中に芽生えた気恥ずかしさを押し隠すよう、変化のない淡々とした表情で告げた。
「鳥の巣みたいになってた」
「そこまで!?いつの間に…!?」
「嘘」
平然とついた嘘を本気で取った凪が慌てる姿が何となく可愛くて、すぐに種明かしをする。家康の方を見て些か不服そうな彼女はしかし、実際には鳥の巣になっていなかったと安堵したらしく、肩の力をそっと抜いた。
そのころころと変わる表情を見ている限り、あの怯えた素振りの影は見えず、内心で密かに胸を撫で下ろす。突如として聞かされた【目】の事は当然驚いたが、それよりも家康の印象に残ったのは、戦中に起こる一瞬の出来事を垣間見た後の、凪の震えた姿だ。
弱い奴には興味がない。それは自分も含めて他人もすべて等しく同じだった筈なのに、凪の強い面を知ってしまった後だからか、あの姿が妙に記憶へ焼き付いた。
「……凪」
「………え?」
ぽつりと唇から彼女の名が紡がれる。ともすれば聞き逃してしまいそうな小さなその音は、しっかり彼女の元へ届いていたらしい。凪は微かに眼を瞠り、幾度か瞬かせた後で虚を衝かれた面持ちを浮かべた。
「なに、間抜け面して放心してるの」
「ま、間抜け面はしてないです…!あの、今私の名前…」
光忠に指摘され、もしかしたら何処かで引っかかりを覚えていたのだろうか。家康が名を口にした事実に、凪はただ驚いた様子で男の姿を見つめている。とく、とく、と内側で微かな鼓動が鳴り始めている事に気付きながら、それへ必死に蓋をしつつ、家康が呆れたように翡翠色の眼を眇めた。