第17章 月に叢雲、花に風
「あんたも疲れただろうし、ゆっくり休みなよ」
「別に疲れてません。本のお礼も兼ねてお見送りさせてください」
「……そう。じゃあ好きにすれば」
凪の見送りを一度は遠慮した家康だったが、彼女へ更に言い募られてしまえば、それ以上反対をする事も難しい。というより、思いの外頑固な凪が簡単に諦めるとは思わなかったのか、家康はただ短い相槌を打つに留めた。
光秀へ一声かけてから家康と共に部屋を出た凪は、時折家臣達の話し声が聞こえる静かな御殿内を歩き、出入り口まで至る。草履を引っ掛け、外へ出る家康を追うように凪も履物を身に着けた。
「ここまででいい。酔っ払いのあんたが、その辺に足を引っ掛けでもしたら面倒だ」
「そんな酔っ払ってませんよ。足取りだって普通だったじゃないですか」
振り返ったと同時、凪の足元を一瞥した家康が面倒そうに告げる。確かに菊酒が飲みやすく美味しかった事もあって、ついそれなりに進んでしまったが、先程起こった【目】の一件もあってすっかり凪の中から酒の気配は消えてしまっていた。家康の指摘にむっと眉根を寄せた彼女は、自ら否定して相手の傍まで寄って行く。
外気は日中よりも少しだけ涼しく、空には幾つもの星々が散っていた。月は半分以上が欠けてしまっていたが、その柔らかな灯りはほんのりと家康のふわふわした猫っ毛を照らす。
頬を撫ぜた夏夜の風が凪の下ろした黒髪を優しく攫い、微かに乱した。
ふと、思い出す。光秀はよく彼女の髪へ触れて、撫で梳いている。男の長い指が差し込まれる度、凪の髪はするりと真っ直ぐに落ちていた。そうする事が当然であるような仕草には迷いがない。光秀が凪の髪へ何の憚りもなく触れる姿を、いつしか目で追ってしまっている事に、家康自身本当は随分前から気付いていたのだ。そこに、何か特別な意味などないと理由を付けながら。
「髪、乱れてる」
「え、そんなぐちゃぐちゃですか?」
「動かないで」