第17章 月に叢雲、花に風
ふと凪が思い出したように告げる。そもそも家康はこの一件に巻き込まれる前、凪へ渡すものがあって訪れたのだった。彼女に言われて大元の用件を忘れかけていた家康は、一度盃を置いて傍らへ置いていた包みを開けると、そこにあった一冊の真新しい本を取り出す。
「はい、あんたにあげる」
「え?」
差し出されたそれを両手で受け取り、凪がきょとんとした面持ちで視線を手元へ向けた。表紙に書かれているのは【薬種一覧】の文字で、ぱらりと捲れば薬名と共にその処方が分かりやすい平仮名と最低限の漢字を用いて記載されている。
実はこの二週間の間に、家康にはすっかり字が読めない事はバレていて、彼の助言を元に薬種や薬名を読み解いて来たのだった。しかし、それではなかなか不便さは変わらず、いよいよ記憶力との勝負かと悩んでいたところに、これが手渡されたのである。
「もしかして…家康さんが書いてくれたんですか?」
「普通に考えて俺以外に居ないでしょ」
ぽつりと溢した問いかけに、家康は外方を向きながら素っ気なく答えた。
幾つもの種類がある薬名と処方を、一から丁寧に書き記すというのはかなり途方もない作業のように思える。パラパラと捲っただけでもかなりのページ数があり、それだけの時間を割いて貰った申し訳無さと、純粋な嬉しさが湧き上がり、凪の双眸が見開かれた。
「ありがとうございます!家康さん…!!」
じわじわとせり上がる喜びを露わにするよう、凪が腕の中に本を大事に抱き締め、笑顔を零す。花が綻ぶかの如く柔らかなそれは彼女の感情を雄弁に語っており、嬉しさから微かに上気した柔らかな頬につい目が惹かれた。
目の前で真っ直ぐ、自分だけに注がれた笑顔を前に、家康は微かに息を呑む。とくとくと響く鼓動が静かにそっと騒ぎ出し、逸らす事を忘れて凪を見つめた。
彼女の笑顔を目にしたのは家康だけではない。その場に居た光秀も、また光忠も凪の笑顔を目にしている。
凪の綻ぶような笑顔は愛らしい。それは摂津で初めて彼女の名を口にした時の印象が今でも鮮やかに残る、光秀自身が良く知っている。