第17章 月に叢雲、花に風
光秀が少し距離を取った凪へ片手を伸ばし、宥める為、頭を撫でようとしたところで、盃を両手に持ったまま、彼女はすっと身体を斜めに傾ける形で腕から逃げる。ほんの少しツン、とした様の凪を見つめ、光忠は幾分関心を寄せて微かに目を瞠った。
(……どうやら、まったくの脈なしという訳ではなさそうだ)
逃げた凪はしかし、光秀によって呆気なく触れられる。下ろしたままの長い黒髪、その毛先へ指先を滑らせ、くるりと弄ぶようにすれば、彼女は眉間を深々と寄せたままで光秀を軽く睨んだ。
「光秀さんは黒豆をちゃんと食べてください」
「お前が愛らしく口に運んでくれるなら、食べる気にもなるんだが」
「しません」
くつくつと笑いを溢しながら告げた男に対し、凪は眉間を顰めたままできっぱり言い捨てる。不機嫌そうな様は、妬いているのか、あるいは女性独特の男性へ向ける不審感か。
凪の様子を観察していた光忠が盃を傾けた後で、さらりと付け加えるように口を開いた。
「ちなみにその女は訪れて早々、酌も許されぬまま憤慨して帰ったがな」
「あんた一体、その女に何を言ったんですか…」
「ほう…?そういう類いの話に興味でもあるのか、家康」
「違います」
つまり、宿へ訪れた女は何もする事なく追い返されたという事だ。それを耳にした凪が、ふうん、と関心の薄い相槌を打つ。何も無かったと聞いて嬉しいような、安心したような、心の中はそういった複雑な心地だった。
憤慨して帰ったと聞いた家康は些か呆れた調子で溜息を漏らし、半眼の視線を送る。まあ実際家康とて同じ状況になったらあしらうのだろうが、憤慨して帰るなど、余程の事を言ったのだろう。そういった意味での言葉に対し、光秀は些か面白そうに口角を持ち上げた。
「そういえば、家康さん。今日御殿に来た用事ってお漬物のお裾分けだったんですか?」
「……いや、色んな事があり過ぎてすっかり忘れてた」