第17章 月に叢雲、花に風
黒豆を数粒食した後で、隣の小鉢を手に取った凪が漬物を食べた後、笑みを浮かべた。実はこの漬物、漬け過ぎたと言ってお裾分けのていで持って来たものだが、普段家康が食べるものよりも数倍辛さが抑えられている。現に家康は元々赤めな漬物へ更に唐辛子を振りかけていた。
「この明らかに身体に悪そうな漬物が美味いだと?凪、お前も味覚が狂っているのではないか」
「文句言うなら食べるな」
「私の味覚は普通です。食べてみれば分かりますよ」
健康志向な光忠が訝しみを込めて凪を見ると、傍から家康の冷たい視線がすかさず飛んで来る。そっと苦笑した彼女がもう一口漬物を食べ、胡瓜を食した時独特の小気味良い咀嚼音を小さく鳴らした。
先日家康の御殿に泊まった折、出された膳の一部が家康用の味付けだったらしく、凪は一口食べてその凄絶な辛さに悶絶した経験がある為、間違いない。明らかにこの漬物は手加減されている。
とてつもなく疑わしい面持ちで漬物を食した光忠は、凪の言う通り見た目程ではない辛さに瞼を伏せ、それを嚥下したタイミングでちらりと視線を光秀や凪、家康へそっと向けた。凪は時折膳の料理を食べながら、光秀や家康に薬酒を注いでおり、お返しにと主に光秀が彼女の盃へ注ぎ返してやっている。交わし合う言葉は穏やかで、凪へ投げる視線はとても柔らかい。
そういった姿を見つめていると、つい悪戯心が湧き上がってしまうのが、この男の悪癖と言えよう。菫色の眼を僅かに細め、光秀はともかく、凪の感情の仔細を見定めるべく小鉢を膳へ戻した。
「それにしても光秀様、視察の夜に訪れた女への態度と凪に大してのそれは、まことに異なりますね」
「………視察の夜に訪れた、女の人?」
色素の薄い長い睫毛を伏せつつ、口元へゆったりと弧を描いた光忠が手酌で徳利を傾け、盃を満たす。光忠が発したそれを耳にした瞬間、光秀の眉間がぴくりと小さく動き、金色の眼がほんの僅か険を帯びた。
家康もその話題を耳にし、ぱちりと翡翠の眸を瞬かせる。