第17章 月に叢雲、花に風
「礼はこちらで貰おう」
咄嗟に面を上げた凪の顔へ光秀に似通った端正な面が近付いた。鼓膜を揺らすしっとりと低い声はけぶる色気を漂わせ、それが光秀の所作を彼女の中へ彷彿とさせる。ほんの僅か、その所為で抵抗を忘れた凪の唇へ自らのそれを重ねようとした刹那、真正面から飛んできた空の盃が光忠の顔面へ迫った。
ぱしり、と硬質な音を木霊させ、凪の腰を引き寄せていた手で盃を受け止めた光忠は、くるりと指先で受け止めた盃を軽く弄び、そっと視線を流す。
「随分と手が早い事だな、光忠」
潤った低い声色が空間を裂いた。視線を向けた先には、盃を投げた腕を下ろして悠然と笑んだ光秀の姿がある。
流した視線の先にある主君の金色の眼差しを真っ向から受け、光忠はその眸の奥に滲む感情の類いを読み取ろうと眼を静かに眇めた。
「ご不興を買ってしまいましたか」
「その娘で遊ぶのならば、飼い主の俺を通して貰おう」
「許可はいただけるので?」
「その頭が飾りでないなら、言っている意味も分かるだろう」
(なにこの二人、怖い!!!)
光忠に口付けされそうになった事実よりも、普段よりやけに淡々とした光秀の声色の方が衝撃だった凪は、もはや怒る事も忘れ、この隙にと言わんばかりに男の腕から逃げ出した。淡々と交わされる従兄弟同士の会話は遊びを含めているようにも聞こえたが、残念ながら口元には笑みが乗っていても、肝心の目が微塵も笑っていない。空の銚子と転がった盃を回収し、脱兎のごとく家康の傍へ逃げた凪の姿を横目に見やり、光忠は面白そうに笑う。
「兎に逃げられてしまいましたね」
「狩りをしたいなら夜の平野にでも出向くといい。お前好みの獲物が転がっているかもしれないぞ」
「転がっているのは野盗ばかりでは?」
「獲物の類いは選り好みしない主義だろう」
主君が投げて来た盃を丁寧な所作で膳の上へ置き、投げかけられる言葉へ緩く肩を竦めた。光秀はただ眇めた眼を注ぎ、笑っているが、平野に行けと言った目はあながち冗談でも無いように見える。ここまでの反応を見せられてしまえば、光忠とて凪が主にとってただの暇つぶしの相手でない事は完全に確証を得たも同然だ。
非礼を詫びるよう静かに瞼を伏せ、頭を下げた男は手酌で自らの盃に酒を満たす。