第17章 月に叢雲、花に風
「ちょっとあんた、いつまで隠れてるつもり」
「いや、なんか雰囲気が怖くて。すみません…」
「……別に怒ってる訳じゃないけど」
突如始まった従兄弟同士のやり取りを静観していた────否、正直凪が光忠に口付けされそうになった時にはつい動いてしまいそうになった家康は、自らの背に隠れていた凪へ半眼を向けた。
おずおずと顔を覗かせる凪は肉食獣から逃げた草食動物のようであり、空の銚子を抱える姿へ吐息を漏らした。
「一旦置いたら?どうせ後で片付ける事になるんだし」
「そ、そうですね」
家康の言葉へ頷き、空の銚子をひとまず端へ退けた凪は盃を抱えたまま小さく息をつく。まあその気持ちも分からなくはない、と思った家康を他所に、光秀がふと凪を呼んだ。
「凪、酌をしてくれるか」
「は、はい…!」
びくりと小さく肩を跳ねさせた凪は、そのまま家康の元を離れて自席へ戻る。膳の上にあった新しい別の盃を差し出す様子を前に、光忠が静かに告げた。
「待て凪。光秀様へお注ぎするなら銚子ではなく、徳利の方にしろ」
「徳利の方ですか?」
「ああ、薬酒を徳利へ用意させた」
「え、薬酒!?」
「薬酒…?」
薬、薬草好き二人が光忠の発言にぴくりと反応を示す。
予想以上の食い付きに若干面食らった光忠だが、当然理由など分かる筈もないのでおもむろに頷いた。
「薬酒とは…視察の際に用意していたものか」
「ええ、加賀の菊酒(きくざけ)でございます。先日、気に入っておられたようでしたので、お持ち致しました」
光秀も薬酒と聞いて思い当たる事があったのか、光忠へ視線を向けると静かに問いかける。先程二人の間に流れていた、些か不穏な空気は既になく、切り替えの速さもさすが従兄弟だけあってそっくりだと内心で感心した凪は、覚えのある単語に双眸を瞬かせた。
「加賀の菊酒って、結構有名ですよね。厄除けとかの意味もあるけど、他にも目の働きを高めたり色々な効能があるんですよ。光秀さんにもってこいですね、夜に書き物とかよくしてますし」