第17章 月に叢雲、花に風
「さっき家康さんからちょっとだけ聞きました。多分その盃、凄く大事にしてるんですよね?じゃあ使えません。というか、別に遠い訳でもないし、自分のくらい普通に取りに行きますよ」
微かに笑った凪はそう静かに言い切ると一度立ち上がり、自分の膳から盃を取って再び光忠の前へ戻る。
そうして両手で差し出された彼女の空の盃へ視線を落とし、光忠はしばし言葉を失った。言われた事のない言葉が、思考をぐるぐると巡る。些か虚を衝かれた様子で目の前に居る凪を見た後、男はやがて微かに顔を俯かせ、瞼を伏せると吐息混じりの笑いを零した。
「そうか、それは失礼。どうやらお前を普通の女の枠に当てはめるのは無駄らしい」
「どういう意味ですかそれ、絶対悪口ですよね」
「好きに受け取れ」
光忠の言葉を良くない方向へと受け取ったらしい凪が眉根を寄せて物申したいと言わんばかりの不機嫌そうな面持ちになる。短く相槌を打ち、自らの盃を膳へ置いた後、差し出された器へ光忠が優雅な所作で銚子を傾けた。
その様を正面から眺めていた光秀は、光忠が紡いだ言葉の意味を察し、内心で嘆息を零す。
(…やれやれ、それなりに血の濃さは近しいと思ったが)
光忠が告げたそれは、凪をそれなりに認めたという意味だ。軽口の多いあの従兄弟はその実、なかなかの女嫌いである。それは過去の経験から来るもので、根っからの、という意味ではないが、この乱世において凪のような女は極稀だ。
自らが惹かれた事といい、凪には後の世で育ったからこその独特の価値観や感性がある。それを、光忠が認めぬ筈もない。
「ごちそうさまでした」
光忠によって満たされた盃へ口をつけ、数度に分けて呑み切った凪は空になった銚子を受け取り、それを一度厨に運ぼうと思ったのか、おもむろに立ち上がろうとした。
しかしその瞬間、光忠が両手の塞がっている状態の凪の片手を取り、自らの方へぐい、と引き寄せる。
「あ…っ!」
小さく無防備な声が唇から溢れた。彼女が手にした盃が乾いた音を立てて畳の上へ転がり、引き寄せた華奢な腰へ腕を回した光忠がそのまま空の銚子を抱えた体勢で胸へ倒れ込んで来た凪の身体を抱きとめる。