第17章 月に叢雲、花に風
謎の誤解をされているらしい家康と光忠へ言い募り、話の発端となった光秀の方へ向き直った凪が縋るような雰囲気で確認するも、男は否定も肯定もしないままで、ただそっと口角を持ち上げただけだった。
やはりあの夜、光秀相手に何かとんでもなく失礼な事をしたのではないか────主に帰り道で。そう思えばふとあの夢の内容が連動的に思い起こされ、じわじわと耳朶が赤く染まり始めるのを見やり、光秀は指先で火照った片耳を軽く擽った。
「っ、」
「気を付ける事だ。前回は何事もなかったと言えど……次もそうとは限らない」
顔を軽く近付け、耳元へ唇を寄せた光秀が低めた声色で小さく囁く。自分達以外には聞こえない声量のそれへ双眸を瞬かせた凪が赤くなった箇所を更に上気させた様を満足げに見やり、仕上げとばかりに耳朶を指先同士で擦り合わせるようにして撫でた後、ゆっくり離れた。
「……う、えと…お箸貸してください」
「ああ」
人前で行われた一連の羞恥を助長する出来事を誤魔化すかの如く、小さく唸った凪は様々な感情を押し殺すようにして視線を彷徨わせ、膳の上にあった焼き魚の存在を見つけては箸を求める。凪の行動が照れや気まずさを隠す為の行動だと気付いている光秀はそれ以上下手に突っ込む事なく、喉の奥でくすりと低い笑いを零してから大人しく自らの膳に乗った箸を手渡した。
箸を受け取った後、光秀の膳から焼き魚の皿を取った凪は自らの膳の上で綺麗に身と骨を解して行く。解す事に慣れた所作、というよりは光秀のそれを解す行為自体が慣れているといった様子は、二人の日常的な距離の近さを思わせた。
解し終えた魚の皿と箸を返した凪へ、礼を言って受け取る光秀の面持ちは穏やかである。
(…この方が女へあのような表情を御見せになるとは。なるほど、あの時部屋へ訪れた女を追い返したのも納得が行く)
それまで静かに二人のやり取りを静観していた光忠は、巣食っていた疑念を解消する為、思案を巡らせていた。
光秀が抱く義を知り、己もその手足となる事を望む光忠としては、女如きに光秀が抱く大義を邪魔立てされたくはない。光秀と同じ過去を生きた光忠は、この世が汚くくすんでいる事を知っている。