第17章 月に叢雲、花に風
傍にある銚子(ちょうし)には清酒が用意されており、それとは別に大きめな徳利が置かれている。
「光秀さん」
光秀の隣に座りながら、凪は傍に置かれた銚子を手に取り、おもむろに声をかけた。彼女の仕草を見て膳の上から盃を手にした光秀が凪へそれを静かに差し出す。そっと銚子を傾けて酒を注いだ凪の姿を前に、光忠は双眸を瞬かせた。
先日行った小国の視察の折、部屋へ訪れた女には許す事のなかった酌を自然と受けている姿へ男は静かに感心する。
満たされた盃を一気に呷れば、続けて凪が銚子を再び傾けた。二杯目は控えめに舐めるだけ、光秀の呑み方の癖を知っているかのように、凪はそのまま家康の方へ向き直る。
「家康さんも、どうぞ」
「どうも。……あんたはあまり呑み過ぎない方がいいと思うけど」
「え、元々そんなに呑まない方ですよ」
「………あっそ」
声をかけられて盃を持ち上げた家康のそれを満たした後、些か胡乱な眼差しが向けられると凪は不思議そうに双眸を瞬かせた。再宴の事を言っているのだろう家康は、まるで自覚がないらしい彼女へ微妙な間を空けた後、短く相槌を打つ。
「光忠、盃を出せ」
「はっ」
しばらくそうして周りを観察していた光忠へ、正面から声がかけられた。瞼を伏せて返事をすると、彼はいつもの如く袂から古びた盃を取り出し、両手で光秀の前へ差し出す。
光忠が取り出した盃の存在に気付いた凪は、光秀によって注がれて行く酒の器へ眼を瞠った。古びて傷みが見えるそれはしかし、とても丁寧に扱われているのだろうと察する事が出来る。自分で盃を持ち歩いている姿を、安土の武将達の中では見たことが無かったというのも印象付ける理由となったが、しばらく凪はその男が持つ盃から目を離す事が出来なかった。
「礼儀のなってない男だけど、光秀さんへの忠義は本物らしいね」
「え?どうしてそんな事分かるんですか?」
光秀が満たした盃を優雅な所作で呑む男を横目に、家康が淡々と静かに呟く。家康がそんな事を言い出した理由が分からない凪が首を傾げた。
「外側の装飾、結構剥がれかけてるけど、あれは光秀さんの家紋だ。それを後生大事に持ってるっていうのは、そういう事だよ」
「そうなんだ…」