第4章 宿にて
暗がりの中、あまり夜目が効かないらしい凪が声を頼りに光秀へ振り返り礼を述べる。
静寂に満たされたその空間で、褥へ身を遠慮がちに横たえる布擦れの音が鼓膜を揺らし、凪が上へ掛ける着物を肩まで引き上げて光秀の方へ背を向けるような体勢になった。
「そういえば…もう一つの訊きたい事ってなんだったんですか?」
二つ程訊きたい事がある、と告げていた光秀のそれを覚えていたのか、彼女が背を向けたままで問い掛ける。
もう寝入る体勢になったと思った凪からまさか切り出されると思っていなかった光秀が、文机への方へ返しかけた踵(きびす)を留めた。
音を立てずに振り返り、横たわる小さな背を見つめる。
じり、微かな音を立てて燭台の灯火が揺れた。
「おやおや、俺の言った事を覚えていたとは感心だな。その寝ぼけた頭では言葉など、とうに抜け切っていたと思っていたが」
「さすがにそこまで間抜けじゃないです」
喉の奥で笑った光秀に対し、憮然とした声色が返って来る。
不意に笑みを消し、凪がこちらを向いていない事を改めて確認すると光秀は面持ちから感情の色を消し、心を押し殺した様子で閉ざしていた唇を開いた。
「─────…お前の元居た世は、太平の世と呼べるのか?」
その硬い音には痛切とも言える、何処か縋るような色すら覗く、確かな男の願いが込められていた。
これまで光秀とやり取りをしてきた中で、一度たりとも耳にした事のないそれに驚いた凪が身体を横たえた状態で目を見開く。
言葉を失ったままで眼を瞬かせていた彼女はしかし、その光秀の問いに自分こそが誠意を持って答えなければならないとどうしてか直感的に感じて、緩慢に身を起こした。
「私が過ごしていた500年後の日ノ本は、」
高音過ぎない心地よい音域の澄んだ音が鼓膜を揺らす。
さらりとひと房流れた癖のない真っ直ぐな黒髪に奪われた視線は、そのまま彼女が羽織る桔梗紋へと移された。
戦勝を願うそれが彼女の背にかかる様は不安か希望か、どうしてか光秀の心を騒がせる。
「少なくとも、この時代のように各地で戦が起こるような事はない、とても平和な世だと思います」
穏やかな調子で告げた凪が、そのままゆっくりと光秀の方へ振り返る。偽りの無さを伝えるかのような漆黒が真っ直ぐに向けられた。