第17章 月に叢雲、花に風
男が振り返った拍子、目の当たりにしたその面立ちを前にして、家康は静かに息を呑む。家康も光忠とは初対面らしく、光秀と似通ったその姿へ驚いている事が見開かれた翡翠の眼から窺えた。
「家康…という事は、もしや信長公と同盟を組んでおられる徳川家康公ですか」
「…だったらなに」
「いいえ、お初に御目にかかります。私は明智光忠…以後お見知り置きくださいませ」
凪の時とは異なり、振り向いた先に立っている家康へ両膝を折った体勢へと変えてから低頭した男は、瞼を伏せながら実に丁重な礼の姿勢を見せる。それにより、凪は先程自分がされた挨拶はかなり馬鹿にされたものであったのだと気付いたが、後の祭りであり、彼女自身は元々庶民な為、実際にはあまり気に掛からなかったのだが。
「ところで家康公、もしや凪へ御用でしたか?あるいは光秀様へ?」
(なんで急に呼び捨て…!?別にいいけど)
むしろ敬称をつけて呼ばれる方が一般人の凪にしてみれば違和感があるので、呼び捨て自体はまったく気にならないが、目の前で膝を折っている男は何となく別な気がする。
光忠の言葉を耳にし、家康は僅かに眉根を寄せた。正確には凪を呼び捨てにした事へ、微かな反応を示す。それをおくびにも出さない素振りで冷たい視線を光忠へ送り、後ろに居る凪へ意識を向けた。
「別にあんたには関係ない。ねえ、光秀さんは留守?」
「そ、そうです。少し前に出かけて…でも、もうすぐ帰って来るかなとは思うんですけど」
光忠へ冷たく言い放った後、背後に居る凪へ問いかければ、彼女はおもむろに肯定を示した。しかし、その合間を裂くようにして光忠が自然な様を装いながら姿勢を緩慢に戻しつつ、そっと首を傾げてみせる。
「家康公は、凪の名を呼ばれないので?」
「……っ、」
「え?」
その拍子に男の長い髪がゆらりと揺れ、眇められた菫色の眼を真っ直ぐに受けた家康は、ほんの僅か、小さく息を呑んだ。