第16章 掃き溜めに鶴
薄い男の唇は、吸い寄せられるようにして凪の唇へ近付き、すんででその位置を僅かにずらす。唇の端へ触れた柔らかな熱と感触に目を見開き、黒く長い睫毛が震えた。
瞼を閉ざす間も無かった凪の視界いっぱいに、目を伏せた光秀の端正な面持ちが映り込む。戯れでは容易に片付けられない真剣さを帯びた男のそれへ、少しだけ収まった筈の鼓動がまたしても忙しなく脈動を刻んでいった。
────そこまで否定するなら、いっそ本当に俺としてみるか?
(………あ、れ?)
突如脳裏を過ぎった光秀の言葉に、凪は小さな疑問を抱いた。ゆっくりと離れていく男の唇の感触に、いまだ喧しい心臓は耳朶の裏で直接鳴り響いているようで、小さな糸口へと辿り着きそうな思考を掻き乱す。
(これは、いつどこでした会話だっけ?夢、それとも…────)
「思ったより大人しいな。露を拭ってやっただけだが、それ以上をご所望だったか」
不意に現実へ引き戻すような声が響き、凪は我に返るといまだ顔を近付けたままの男を改めて見やり、発せられた言葉へ目元を赤らめて眉根を寄せた。
「そんな訳ないじゃないですか…!大体、何かついてたなら言ってくれれば自分で拭きます…っ」
「まあそう怒るな。続きはしないのか?」
「し、しますよ…!こうなったら光秀さん唸らせるぐらい達筆になってみせますから…!!」
赤くなった目元をそのままに、緊張や気恥ずかしさをやり過ごすよう意気込んで告げる。そうでもしなければ、思考の海に引きずり込まれてしまいそうになるのだ。答えが見えそうで見えないそれは、敢えて辿り着きそうなタイミングで遮られたようにも思え、そんな偶然がある筈ないと頭で否定しながら、凪は自らを落ち着けようと深い溜息を零す。