第16章 掃き溜めに鶴
「もう一度だ。繰り返している内に身体が覚える」
「というか光秀さん、あの、さっきから顔が…近い…っ」
わざと耳元で囁くと、凪の耳がじわじわ上気して行く。その熱が首筋まで広がっていく様は煽情的であり、熱を隠す為に瞼を一度閉ざした光秀は開いた片手を凪の腹部へ回し、そのまま自身の方へ軽く引き寄せた。
男の身体へ背が更に密着し、先程から延々と囁き落とされる艶めいた低音に凪の心臓がいちいち跳ねる。集中したいのにし切れない状況を作っている光秀へ文句のひとつも言いたい筈が、羞恥でつい言葉が詰まってしまい、凪は最低限の苦言を呈した。
相手が何か言葉を発する度、耳朶を吐息がかすめる。筆を持つ指先につい力が入れば、宥めるよう手を覆っている親指の腹が凪の手の甲を優しく撫ぜた。
「凪、続きだ」
「うう…、」
こんな事なら素直に家康へ字が読み書き出来ない事を伝えるんだった、と後悔したところでもう遅い。ひとまず上手く書けるようになれば解放されるだろうと考えた凪は、自分の鼓動を必死に落ち着けて手元へ意識を向けようと思考を切り替えた。光秀の補助を受けつつ、何度か文字を書いた後で、今度は一人で書いてみろと言われれば、それまで凪の手を包んでいた大きな手のひらが遠ざかる。
手を包んでいた低い温度が離れていき、安堵すると共にどうしてか物寂しさを覚えた凪は、慌ててその感情をかき消すように内心で首を振った。光秀のよく分からないけれど、とてつもない色気にあてられた所為。そう言い訳を溢し、気合いを入れる為、小さく吐息を漏らした。
「上手く書けたら褒美をやる」
「…私がちゃんと喜ぶご褒美なら欲しいです」
「ああ」
これほどまでに密着していたら、もしかしたら光秀にはとうに煩い鼓動など伝わってしまっているのではないか。懸念は気まずさへと変わり、くつくつ笑いながら紡がれた艷やかな音へ、これ以上振り回されたくなくて憮然な面持ちと声色を見せる。相槌を耳にしてから改めて気合いを入れ、墨をつけた筆を運べば、最初に書いた不格好なものよりもかなり様になった【治打撲一方】が書き上がった。