第16章 掃き溜めに鶴
白い指先が題字として書かれている薬名を指し示す。軽く身を屈めれば自然と凪の耳朶付近へ唇が寄せられ、光秀の低くしっとりとした音が鼓膜を静かに揺らした。
「治打撲一方(ぢだぼくいっぽう)」
「あ、これは私の時代にもありますよ…!」
「ほう…?後の世まで残っているという事は、有効な薬という証明だな」
治打撲一方は捻挫や打撲に用いる処方薬だ。早速見知った薬名が出て来た事へ嬉しそうな面持ちを浮かべる凪を見やり、それから本へ意識を戻した光秀が穏やかに告げる。
「読むだけでは容易に覚えられないだろう。写してみろ」
「それもそうですよね、何とか雰囲気と形で覚えます」
本を脇へ寄せ、光秀の助言通り筆を取った凪は記されている文字を見ながら模写を試みた。が、かなり達筆な崩し文字は現代の書道の感覚だとそう簡単にはいかない。苦戦している凪の手元を見やり、光秀はおもむろに彼女の手を上から覆うようにして握り、ゆっくりと紙面に筆を滑らせた。
「光秀さ…っ、」
「手元へ集中しろ。大まかな形になれば、そう読めないものでもない」
「…は、はい…!」
突如として大きな手のひらに手を包まれた事へ驚き、びくりと肩を揺らした凪だったが、光秀が耳朶へ囁くように注意を飛ばし、そのまま彼女の手を導く。大きな手のひらが低い温度と共に自分の手を包んでいる様が妙に気恥ずかしく、先程から耳朶を掠める低い声色も相まって、どきどきと鼓動が早鐘を打ち出した。
光秀に導かれると、まるで自分のものではないかのような筆捌きで文字が記されて行く。教える事に慣れたその様はとても穏やかで、声色も柔らかい。最初に凪が書いたものより、達筆で綺麗な文字が仕上がれば、思わず彼女は感動を滲ませ目を瞬かせた。
「わ、凄い…!」
嬉しそうな凪の横顔は何処となく無邪気で愛らしい。小さな手を持って墨をつけるようにし、筆先を整えるところからやってやれば、時折包んだ手が緊張した様子でひくりと強張りを見せた。自分と同じ感情で意識をしている訳ではないと分かっていても、そういった様を目にすればつい悪戯心が芽生えてしまう。