第16章 掃き溜めに鶴
腕を払われた事も特に気にせず、光秀はそのまま凪の傍へ腰を下ろし、不機嫌も露わな彼女に向けて黒文字で刺した梨を一つ取ってそのまま口元へ運ぶ。
「そうむくれるな。これでも食べて機嫌を直せ」
「梨に文句は全然ないですけど、何でも甘いもので機嫌が直ると思ったら大間違いですから…!」
「ほら、早くしないと紙に汁が垂れるぞ」
「……まあ、梨に罪はないですし」
瑞々しい梨からは誘うような甘い香りがした。きっととても甘いのだろうそれを前に、凪は傍の光秀へ文句を含めた視線を送る。いつもそうしていいように流されているような気がして、そう簡単に機嫌など直らないのだと主張しようとしたところで、追い打ちのように男が告げた。
紙に汁が落ちるのは何となく嫌で、光秀と口元に差し出された梨を交互に見た凪は根負けした様子で渋々それを光秀の手から食べる。
「………甘くて美味しい」
「それは何より」
さくりと歯ざわりの良いそれは思った通り甘く芳醇で瑞々しい。咀嚼の度に甘い果汁と香りが広がり、ひんやりとした冷たさも相まってさっぱりとした味わいが何とも言えず、つい小さく呟きを落とすと傍の光秀が微笑を溢した。黒文字を一度皿へ戻し、再び凪の手元へ視線をやれば、傍には秀吉作成の五十音表がある。光秀の目から見ても達筆なそれは書簡でよく目にするもので、そっと双眸を眇めた彼は凪の横顔へ意識を向けた。
「まだ目もあてられない程かと思っていたが、存外仮名はよく書けるようになったらしい」
「褒めてるのか貶してるのかどっちですか」
「無論、前者だ。それで、次は何を書こうとしていた?」
「え?うーん…」
微妙な褒め方は割と光秀相手ではいつもの事でもあるので、あまり主立った反論はない。変わりに複雑そうな眼差しを凪から受けると、そっと肩を竦めた男はあっさりと肯定した後、次に何を書くのかが気になり、硯の上へ置かれた筆に墨をつけ、筆先を整えてから凪へそれを持たせる。
次は何かと問われると、そこまで考えていなかった凪は、持たされた筆を受け取る形で握り、短く思案したのち、紙へ筆をゆっくりと滑らせた。