第16章 掃き溜めに鶴
思わず声に出して呟いてしまい、咄嗟に片手で口元を覆う。家康は凪が文字の読解が出来ない事を知らない。秀吉は普通に受け入れてくれたが、普段の毒舌っぷりを考えると、冷めた眼差しが飛んでくるのでは、とつい言い出せなかったのだ。
(いや、案外家康さんは優しいところがあるから、大丈夫だとは思うんだけど、そもそもこれが読めないとスタート地点にも立てないって事だよね)
薬の名は大体が漢字だ。その為、字体だけでも何とか覚える事は出来ないかと考え、就寝までの時間は文字練習にあてようと思い至り、硯箱と紙を取り出す。
ちなみに硯箱は光秀のお下がりであり、もう使わなくなったものを頂いた。最初は新しく用意すると言われたが、別にお下がりでもまったく気にしない為、丁重に辞退した背景がある。
(墨って独特だけど何かいい匂いで、結構好きだなあ)
墨をすりつつ、漂う香りに一人そんな事を考えていた凪は早速、秀吉作の五十音表を開いた。平仮名は何度も練習しているが、単体でばかりこれまで書いていた事を思い出し、文章とまではいかずとも、何か単語を書いてみようと思い至ったのである。
(えーと……なんて書こう)
練習として適当に書くだけなのだから、別に何でもいいような気がするのだが、いざ何でもとなると案外思いつかないものだ。墨をつけた筆の先を整え、しばし停止した彼女は散々悩んだ末、筆を紙へゆっくり滑らせた。
一方その頃、文机で書簡の返信をしたためていた光秀は、襖の前で静かにかけられた声へ視線だけを向ける。そっと開けられた襖の向こうには九兵衛の姿があり、盆には小皿の上に一口大に切られた梨が置かれていた。
「どうした」
「浅次郎の実家から梨が送られて来たとの事でしたので、お持ち致しましたが…おそらく光秀様の事です。お断りになるかと思いましたので、凪様の分のみお持ち致しました」
光秀はあまり間食をしない。元々食に興味がない事も手伝って、そういった感覚が薄いらしい。仕えている長さ故、それを知っている九兵衛は凪の分だけをこうして運んで来たという訳だ。紡がれた意図に緩く口角を持ち上げると、光秀が短く問いかける。