第16章 掃き溜めに鶴
「そ、そろそろ支度も出来た頃だと思いますし、戻りましょう!そしてお城に帰りましょう…!」
忙しない鼓動がまた昨夜のように耳朶の裏で煩い程に響く中、凪がぎゅっと瞼を固く閉ざしたままで早口に捲し立てる。閉ざした所為でふるふると震える長く黒い睫毛がいじらしく、おもむろに目を開いた光秀はついくすりと笑みを漏らした。
「…ああ、そうするとしよう」
いい加減かまい過ぎては機嫌を損ねてしまうかと判断し、肯定の意を示した後で光秀は頬へあてがっていた凪の指先を唇へ導き、そこへ自らの薄い唇を押し当てた。
「!!!?」
思いの外熱い温度に驚き、咄嗟に瞼を開いた凪の驚きと羞恥に揺れる眼を満足げに見やり、そのまま彼女と手を繋いで歩き出した光秀へ続きつつ、凪は片手に持った手拭いをぎゅっと握り締める。
あんなにも冷たくひんやりしていた手拭いは、もうすっかりその冷たさを失くし、ほんのりと熱く、その温度を変えてしまっていた。
────────────…
「う、嘘だろ…」
からん、と乾いた音を立てて手にした竹筒が地面へ転がる。一点を見つめて固まっている同期、八瀬の姿を一瞥した後、八瀬と同じ光秀の家臣である浅次郎(あさじろう)は彼が見つめる方向へ視線を投げ、さして驚く事なくああ、と短い相槌を打った。八瀬が向けていた視線の先には、手を繋いで戻って来た光秀と凪の姿。浅次郎としては特に何の衝撃もなく、昼間とは逆なんだな、といった程度のものだった。何故なら光秀の家臣達はあの二人が同衾────以下略、というわけである。
「ああってお前!驚かないのか!?」
「むしろ御殿仕えで知らないの、お前くらいじゃないのか?」
「ええっ!?」
都合の悪い事は聞き流し、都合の良い事だけを脳内で取り入れるのが八瀬である。光秀の家臣達の中では有名過ぎるその話も、彼はまともに聞いていなかった為、事実上の初耳であった。
凪にほんのり淡い想いを抱いていた八瀬とて、彼女とどうにかなれるとは思っていない。遠くから────否、割と近くで彼女を守り、見守る事が出来れば満足だと思ってはいたが、光秀とまさか気になる姫がそんな深い仲だったとは。