第16章 掃き溜めに鶴
「…っ、」
「世話の焼ける仔犬だ」
しかし凪の身体が草原に尻もちをつく事はなかった。咄嗟に回された男の腕が腰に回り、凪の身体を優しく抱きとめる。小さく息を呑んだ彼女とは対照的に、ひどく余裕めいた笑みを浮かべた光秀が笑い混じりの言葉を囁いた。
「光秀さんが急に目を開けるから…!」
「お前の言う通り、動いてはいない」
「それはそうですけど…っ」
回された腕と間近にある整った面を前に、凪は自分が相手へ見惚れてしまった事実を認めたくなくて文句を言うも、光秀へそんなものは効きもしない。笑みを刻んだまま言い返されてしまえば、確かにその通りなのでつい口ごもる。
あてがっていた手拭いが自然と離れて行き、ひんやりとした心地よさが遠ざかっていったが、光秀としてはあまり気になりはしなかった。腕の中にある身体も動き回っていた所為でほんのり火照り、軽く額へ張り付いていた前髪を指先で払った後、緩く首を傾げてみせる。
「あるいは、お前が後ろへ鞠のように転がって行く様を眺めているべきだったか」
「そんな転がりませんから!」
「そうだな、お前は自分が転がるのではなく、鞠を追い掛けている方が似合う」
小馬鹿にされていると察した凪が咄嗟に突っ込むと、光秀は可笑しそうにくすくすと微かな笑いを溢し、笑みを深めて前髪を払った手をそのまま頭部へ運んだ。宥めるようにして数度頭を撫でると、彼女はそれを振り切るよう軽く頭を左右に振る。
「昨日から思ってましたけど、犬扱い復活してませんか!?」
「お前が俺の元へ駆け寄って来る姿が、どうにも飼い主を見つけて喜ぶ仔犬に見えてしまってな」
家康の御殿へ迎えに来てくれた時は尻尾が見えたと言われ、今日は今日でそんな事ばかりを言ってくるのだ。文句の一つも言いたくなる。しかし光秀は何ら動じた様子もなく、昼休憩と先程の姿を指摘するような物言いをして来た。別にそんなつもりはなかったが、つい光秀を見つけて駆け寄ってしまった事を若干後悔し始めた凪の眉根が顰められる。
「別に喜んでません…!」
「ほう……?」