第16章 掃き溜めに鶴
九兵衛が咄嗟に垣間見た光秀の表情は少なからず驚愕のそれだった。つまり、主君にも予想外の事だったのだろう。
家康が連れているのが医療部隊である事は、見知った面々も居る事からすぐに理解出来たし、訓練の折には彼らはいつも補佐として立ち会ってくれている。凪が彼らと共に居るという事は、補給などの手伝いに連れて来られたのだと容易に予測は出来た。当然、主君たる光秀とてそれは即座に思い当たった筈である。
(……撃ち方訓練の後の、組手が今から心配ですね)
一人ずつ丁寧に体勢を指導している光秀の横顔を見つつ、九兵衛は内心でそんな事を考えたのだった。
姿勢を直す合間、光秀は不意に視線を遠くに居る凪と家康へ投げる。控えの兵達を一瞥すれば、女が演習場に居る事がやはり珍しい為、その視線は彼女へ向けられたままであった。
家康が直々に連れて来たとなれば、その身分や立場は限りなく限定される。
まして今や一部で知らぬ者など居ない【織田家ゆかりの秘蔵の姫】である。興味など尽きはしない筈だ。
何故なら、光秀の御殿に仕える家臣はさておき、ほとんどの兵達は彼女の姿を実際に目にした事がない。一部では姿があまり見えないのは、容姿の美醜を気にしての事、などと取るに足らない噂まで流れている始末である。その噂の姫が、あのような華奢で愛らしい娘だと知れば男ならば気にかかるのも当然だろう。
(…おそらく応急手当の指南の一環として連れて来たのだろうが、昨日の今日とは随分手回しが早い。やはり家康も戦が間近に迫っている事に勘付いているか)
兵の丸まった背をとん、と片手で叩いて正しつつ、光秀は無言の内に思考を巡らせた。
その時、ふと家康が凪の背後に回り、袖を軽く捲くってやっている事に気付く。これから動き回る為、邪魔にならぬよう袖を上げてやっているのだろうが、無防備に背後を許し、白い細腕へ下心などないにせよ、触れさせている事実にそっと眉根を寄せた。光秀の表情の変化は実に微細なもので、周りの兵達は気付いてはいないだろうが。
その権利など持たなくとも、触れさせたくないと、咄嗟に思う。
恋仲でもあるまいし、そんな思いを抱く事すら出来ない立場だと分かっていながら、ほんのり苦く胸を焦がす衝動をやり過ごすよう、光秀は微かに嘆息を漏らすのだった。