第16章 掃き溜めに鶴
家康の一言へ頭を下げた部下が別の馬へ乗り込んだ事を確認し、家康が馬の腹を軽く蹴って合図を出し、それを走らせ始めた。先を走る家康の後に続いて部下達も荷を積んだ馬で駆け出し、安土城を後にする。
バランスを取る事自体は慣れている為、軽く家康の身体に寄りかかった状態で心地よさそうに正面を向きつつ風を受けている凪へふと視線を向けた。
青々とした草の茂る道を駆けながら、夏を思わせる風と共に運ばれて来た香りへ微かに目を瞠る。
────あ、やっぱり菊花だ。いい匂い。
嬉しそうな色を帯びた凪の言葉を思い起こし、家康は手綱を握る指先にほんの僅か、力を込めた。
あんたは、光秀さんと同じ香りなんだね。
呑み込んだ言葉はほろ苦く、そのまま喉をゆっくり滑り落ちて胸をざわつかせる。同じ香りの筈なのに、何故か彼女から優しく薫るそれには微かな甘さが含まれているような気がして、家康は意識の外へそれ等を追い出すよう、馬の速度を少しだけ速めた。
──────────────…
しばらく馬を走らせた後、辿り着いたのはだだっ広い緑の茂る草原だった。視界を遮る木々は草原の奥にある小規模な林のみで、傍には小川が流れているその場所は、織田軍が所有している演習場であると説明を受けた凪は、物珍しそうに辺りをぐるりと見回した。そして視界の奥に見つけた見覚えのあるすらりとした後ろ姿と複数の兵士達の姿に、彼女は驚いた様子で双眸を瞬かせる。
「え、光秀さん!?」
馬上から驚いた調子で声を発すると、後ろに乗っていた家康が軽く手綱を引いて馬の速度をゆっくり落として行く。
視線の先にある男の姿を捉えた彼はああ、とさして驚いた様子もなく鷹揚に頷いた。
「今日はここで銃の訓練が行われてる。あの人はその指南役」
「光秀さんって銃使えるんですか…!?」
「あんた、そんな事も知らなかったの?光秀さんは織田軍随一の銃の名手だ。俺もあの人に教わってる」
「使ってるところ、見た事なかったですし…」
凪が驚くのも無理はない。光秀は摂津の時でも銃を手にしてはいなかったし、普段も基本的には帯刀した状態で歩いている。部屋には置かれているのを見た事はあったが、彼がそれを手にした姿は記憶になかった。