第16章 掃き溜めに鶴
華奢な肩が軽くぶつかり、手綱を握る為に手前へ回した家康の腕の中へ収まる形になると、ほんのり暖かな体温が彼の身体へ伝えられる。
別に変な意図はない。しっかり寄りかかって貰って、体勢を安定させなければ危ないから、と何故か自分の心へ言い訳を溢した事実に、家康は内心眉根を寄せた。
(何でいちいちそんな事考えてるんだ、俺は)
「あ、やっぱり菊花だ。いい匂い」
不可解な感情に苛まれている最中、凪が家康の腕の中で呟きを零す。何故かそれにどきりと鼓動をひとつ跳ねさせると、彼は咄嗟に胸に軽く寄りかかった状態の凪を見下ろした。
「なに、急に」
「御殿にお邪魔した時から思ってたんですけど、家康さんは菊花香が好きなんですね」
「……まあ、そうだけど」
家康に引き寄せられた瞬間、鼻腔をくすぐった品の良い香りは少し珍しい、けれどとても落ち着く彼らしい菊花香だ。御殿へ上がった時も屋敷中にそれがふんわり満ちており、光秀の御殿とは異なった落ち着く空間だった事を思い出す。家康の自室は様々な薬草や薬が保管されていた事もあり、その香りは幾分控えめではあったが、こうして彼自身へ近付くと菊花の香りが際立つ。
特に意図無く紡がれた彼女の言葉へ訳も分からず動揺した事が悔しく、つい素っ気ない態度を取ったが、何気無い会話のひとつに対して些か大人気なかったかと思い返し、小さく呟いた。
「…菊花は元々好きだけど、好みの香りにしたくて今は自分で調香してる」
「え!?自分で調香出来るの?凄い…!」
「別に調香なんて大した事じゃないでしょ」
今までそんな事を誰かに話した事もなかったし、話そうと思った事もなかった。口をついて出てしまったのは、凪が鼻が利く変わった子だから。内心で言い訳を溢し、見上げて来る感心を寄せた眼差しから逃げたその時、部下が近付いて来て一隊の準備が完了した事を報告して来る。
「分かった、出発する」
「はっ」