第4章 宿にて
合わせられた視線が不安と疑念にゆらゆらと揺れた。橙色の灯りを受けた黒曜の瞳が探るように光秀を見やる。
おもむろに目の前の湯呑みへ片手を伸ばしながら、彼は鷹揚な様子で緩やかに笑った。
「そもそもお前のような愚直で、突然姿を消した飼い主を疑いもせず残り香を辿って馬鹿正直に追って来るような仔犬に、間者など務まる筈もなかったと考えを改めたまでだ。訓練された間者は、あらゆる事態を想定して動く。言葉一つ発するにも端々に気を配るものだ。俺に対して自由に噛み付くお前とはまるで正反対だろう?」
「疑いが晴れたって言われてる筈なのに、滅茶苦茶貶されてますね…」
本当ならば凪を間者ではないと判断した情報はいくもあった。
初めて城で出された夕餉に対し、毒味の事実に驚いた事や、膳の中で最も毒を仕込みやすい汁物からよりによって箸を付けた事。
途中の休息で渡した竹筒の中身を疑いもせず、先に飲み始めた事など、細やかな点を挙げるとキリがない程、軍議や馬上で警戒心を見せていた割に凪は全てにおいてそういった事には無防備だったのだから。
(…白だと分かったからこそ余計な事を伝えれば凪が傷付く。これ以上、この件については話す必要もないだろう。気付いていないのなら、そのままでいい)
小馬鹿にした様を押し出した光秀に対し、警戒の色が薄れて来た凪は心のどこかでずっと張り詰めていたものが消え去っていくのを感じ、文句を零しながらもそっと安堵の息を漏らした。
彼女の肩が無意識の内に脱力していく様を、手にした湯呑みへ口を付けながら観察していた光秀は、そろそろ頃合かと静かにそれを畳の上へ置く。
「間者の線は消え去った。…だが、お前に関してはまだ問わなければならない事がある」
「…っ、なんですか」
抑揚のない調子で再び切り出した光秀を前に、再度緊張を露わにした凪が少しばかり緩んでいた面持ちを強ばらせた。
彼女の硬い声を聞きながら、先程とは異なり真摯な眼差しで正面の黒曜を射抜けば、凪が居心地悪そうに小さく身じろぐ。
偽りを許さない金の瞳にすべてを見透かされてしまいそうな心地になりながらも、目を逸らしてはいけないと凪も負けじと真っ直ぐに相手を見つめる。