第4章 宿にて
(後で九兵衛さんに会ったら、お礼言わないと)
そんな事を考えながら光秀から視線を外し、現代では中々見る事の叶わない星空と月に意識を戻した。
暫くそうしていると、不意に背後から何かが肩にかけられる。
驚いて背後を振り仰げば、書き物を終えた光秀が凪の傍に夜着姿で立っていた。肩に羽織らされたのは、光秀のものだろう、生成り色に桔梗紋の入った薄手の羽織である。
ふわり、上品で冴え冴えとした薫物の香りが鼻腔を擽った。
「初夏とはいえ、湯浴みを終えた後で夜風に当たり過ぎると身体を冷やすぞ」
あまりに自然な所作で羽織を掛けられ、咄嗟に言葉を失った凪へ、穏やかな声がかかる。
「ありがとう、ございます」
いまだ目を見開いたままの凪が、どこか呆然とした様子で礼を紡いだのを認め、光秀が首を僅かに傾けては吐息を漏らすようにして笑った。
「お前が望むなら俺が後ろから抱き締めて、暖めてやってもいいんだがな」
「いや、羽織で十分です…」
「それは残念だ」
間髪入れず返ってきたそれに気を悪くした様子もなく、ゆるりと肩を竦めて見せ、開かれたままの障子を片手で静かに閉め切った後で踵を返す。
部屋の入口まで向かった彼は、僅かに障子を開けた後でその向こうへ短く言葉をかけると、再び身を翻して戻って来た。
部屋の隅に置かれている座布団を手にし、用意された褥の隣へそれを置いた光秀は自身は褥の上へと胡座をかいて座った後、凪へ顔を向ける。
ちなみに、凪が使う褥は光秀が居るそこから、六歩分程離れたところにまで移動済となっていた。
「おいで、今茶を運ばせるよう声をかけたところだ。お前と少しばかり話がしたい」
決して威圧的な調子ではないにも関わらず、光秀の言葉には有無を言わせぬ響きが込められている。
用意した光秀の前の座布団へ座れと暗に促され一瞬身を硬くした凪だったが、拒否権など当然用意されている訳もなく、羽織の衿を片手で掴んで立ち上がった。
凪が座布団へ腰を下ろしたと同時、入口の障子が僅かに開く。立ち上がってそこまで向かった光秀が細く開いたその向こうへ声を掛け、畳の上へ置かれた盆を片手に立てば、背後で障子が音もなく閉ざされた。