第15章 躓く石も縁の端
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家康が御殿へ迎えに来たのは光秀が発ってからおよそ一刻半後、五つ(8時)を過ぎた頃だった。
結局光秀を部屋で見送った後、二度寝をする気にはなれず、凪は化粧を施して身支度を整え、突如告げられたお泊まりの準備の為に動いていた。
とは言っても、一体いつの間に準備を整えていたのか、凪の着替え等一式については家康の御殿へ届けられていると言っていた為、化粧道具くらいしか持って行くものがないのだが。
そういった事もあり、出掛ける際の凪の手荷物と言えば、最低限の化粧道具と筆記用具類、念の為にと少額の銅銭を、先日秀吉から貰った紺碧色の巾着の中に入れたのみとなった。
今日は登城の予定はないから、一日俺の御殿で過ごすよ。迎えに来て開口一番、家康は先日開かれた宴の際と同様、抑揚のない声色で用件のみを告げてから、さっさと歩き出した。
慌てて追い掛けた凪が小走りのままで彼の隣を歩き、既に活動的な人々で溢れる往来を進む。
乱世へやって来て数日間、青々とした清々しい天気ばかりが続いていたが、今日は生憎と朝から幾分鈍い色の雲が空を覆っている。時折雲間から気まぐれに射し込む太陽の光はしかし、ぬるい風に流された重たい雲によってすぐに遮断されてしまった。今すぐに雨が降りそうな雰囲気ではないが、曇っていると何となく気分もすっきりしない。
気温も連日のものに比べたら低めで、あまり汗をかかなくていい、といった点のみが救いだった。
「…なんか天気悪いと、てんしょ…えと、気分下がりますよね」
「【てんしょん】でしょ。別に無理して言い直さなくてもいいよ。その言葉は覚えてる」
「え、覚えててくれたんですか?何か嬉しいです」
あまりカタカナ語は使わない方が良いかと気遣い、言い直した凪を横目で見やり、家康はすぐに視線を正面へ戻す。思いの外家康は先日の何気ない会話を覚えていてくれたようで、言い慣れない調子で【てんしょん】と口にした後、気にした風もなく続けた。つい嬉しくなって隣ではにかめば、まるで理解出来ないとでも言いたげな視線が降って来る。
「そんな下らない事でいちいち喜ぶなんて、やっぱりあんたって変わってるね。…それに、夏は特に天気が悪い方が暑くなくて過ごしやすいでしょ」