第4章 宿にて
「まあそう怒るな、折角の可愛い顔が台無しだ」
「か…っ!?」
自身の発言に絶句する凪の眉間を解すよう優しく数度触れた光秀は、彼女の目許へ走る微かな朱を認めて笑みを深めた。
初心とも言える反応を堪えるようますます眉根を寄せた彼女の姿が面白く、つい興が乗る。
「おや?少しばかり目許が赤いようだ。顔に熱が集まる程、必死に俺の後を探し回るとは、まるで飼い主の傍を離れたがらない仔犬のようだな」
「誰が飼い主で、誰が仔犬ですか…っ」
「わざわざ確認せずとも分かるだろう?今もこうして尖ってもいない牙で噛み付いてくる様は、仔犬そのものだ」
目許の朱の理由など分かっているくせに、揶揄を乗せた音が凪を挑発すれば、案の定彼女は不愉快な色のままで眉間に触れたままである光秀の手を両手で押しやった。
「わざと仔犬を置き去りにするような飼い主なんて、こっちから願い下げですよ。…仔犬じゃないですけど」
苛立ちと羞恥のままに顔を横へ背けた凪の、思いのほか端正な横顔を見つめる。押しやられた腕を抵抗なく引き、暫し口を噤んだ光秀が真っ直ぐに視線を注ぐ。
何故か、初めてまじまじと彼女の顔を認めた気がした。瞳の色、髪の色、背格好、傷の有無など。そういった情報を、個人を特定する材料と捉える事の多い光秀に強い印象を残した、偽りのない真っ直ぐな黒曜の眼以外で、凪を凪としてはっきり認識したのは、自身の心の内にあった疑念が晴れたからだろうか。
──────可愛い顔が台無しだ。
あまりにも自然にするりと口をついて出たそれは、今この瞬間思い返せば、紛れもない本心であった事に気付かされる。
「…何ですか、人の顔じっと見て」
注がれ続ける視線に耐えかねたのか、凪が居心地悪そうに呟いた。
口元を綻ばせた光秀は、一度下ろした腕を再び持ち上げると、導かれるようにして掌を凪の頭へ乗せる。薄暗い路地裏でも分かる艶やかなそれを、先程したように数度撫ぜた後で囁いた。
「…一人にさせて、すまなかったな。次にお前が本当に迷子になった時には、俺が必ず探し出してやろう」
艶めいた低音が、遠い喧騒の中ではっきりと凪へ届けられ、鼓膜を震わせる。