第14章 紫電一閃
(まさか、昨夜の件を夢だと思っているとはな)
まったく忘れられてしまうのも複雑だが、夢で片付けられてしまうのもそれはそれで複雑な心地である。かといって、覚えていたらいたで凪が普段通り接して来る可能性も減ってしまう。せっかく少しずつ築いて来た距離感と、自分に向けてくれる信頼や安心感を一気に失ってしまうのは光秀にとっても憚られた。
「……あの、光秀さん?やっぱり何か言ってたんじゃ…」
不安げに揺れる漆黒の眼を見やり、光秀の視線はそのまま自然と彼女の唇へ向けられる。あれだけ激しい口付けを交わしたのだ、当然といえば当然だが、柔らかいそれを淡い色で艷やかに彩った紅が剥げてしまっている様を目にし、そっと瞼を閉ざした。
あの甘美な熱と感触は、自分が覚えていればそれでいい。自らの心へ囁き落とした後、伏せた瞼を持ち上げて光秀は緩く首を左右に振った。
「…いいや。それよりも寝坊助、湯浴みの支度をさせておいた。早く入って来い。朝餉の後、登城するぞ」
「そ、そうですか!分かりました、じゃあ早く済ませますね」
光秀の返答を耳にし、一転して安堵の様を見せた凪の表情が明るくなる。光秀の言葉に対し、すぐに頷いた彼女は襖を一度閉めて自室へ引っ込んだ。
閉ざされた襖をしばらく見つめた光秀は、そこから視線を逸らし、手元の書簡へ意識を戻す。無意識か、あるいは意識的だったのか、筆を持たない片手でおもむろに自らの下唇へ触れた後、吐息と共に微かな自嘲を溢した。
(……やれやれ)
妙な寝言も言っていないらしく、光秀いわく何もなかったらしい昨夜の件に安堵した凪は一度メイクを落としてから手早く湯浴みを済ませようと化粧台へ向かった。
引っ張り出したポーチからメイク落としを取り、硝子鏡を覆う布を取り去って軽く身を乗り出した凪は、そこに映った自らの顔を見て、双眸を見開く。顔といっても、正確には唇だ。
(………あれ?)
指先で軽く下唇に触れた後、湧き上がった微かな疑問に首を傾げる。落ちにくいと評判で購入した気に入りのグロスが、不自然に剥げている様へ彼女はそっと眼を瞬かせた。
(いつの間にこんな剥げたんだろ…)