第14章 紫電一閃
盃へ口を付けていても、簡単には剥がれない筈のそれを目にして湧き上がる疑問に眉根を寄せる。ふと、脳裏に夢の内容が蘇った。何度も角度を変えて啄まれ、呼吸を呑み込むような深いそれが何故かリアルに思い出され、彼女の頬に朱が散らばる。
鏡に映る自分の顔が、見たこともない表情をしている事に気付き、静かに息を呑んだ凪は再びとくとくと早鐘を打ち始めた鼓動を持て余し、片手で唇を覆った。
(────……夢、だよね?)
その筈だ、光秀とて普段通りの素振りを見せている。
だからきっと、夢の筈だ。
頭の中ではそう幾度も言い聞かせるよう繰り返しているというのに、何故か剥がれたグロスとそこに宿る不自然な熱が、さも現実だと知らしめて来るような気がして、凪はいまだに早鐘を打ち続ける鼓動を抑え込むよう、硝子鏡から視線を逸らす。
鏡の中には、何かの始まりを予感させるかのように頬を淡い桃色へと染めた、自分の姿がはっきりと映っていた。
────────────…
支度を終えた凪と共に二人で朝餉を終えた後、程なくして登城し、ひと仕事終えたら一度顔を出すと告げて凪を安土城の自室へ送った光秀は、その足でとある場所へ向かっていた。
絢爛な安土城の中でもっとも陰の気たる澱(おり)の溜まり場───即ち、地下牢である。
日の光が一切届かない石壁で覆われたそこは湿気が淀み、薄暗く、苔がところどころに生えている程であり、窓の一つもない為、朝夜といった時間の判別も難しい。
それを認知する事が出来るきっかけとなるのは、粗末な身なりの牢番が定時毎に持ってくる三度の食事と、地下牢の出入り口に設置された松明の灯りが点けられるか否かだけだ。
牢の通りには一定間隔で灯りがあり、まったくの暗闇という訳ではなかったが、それでも太陽の明るさとは程遠い。
その地下牢における最奥へ鍵を片手に歩いていた光秀は、普通の鼻の利きである自分ですら分かる独特の匂いに眉根を寄せ、歩みを速める。
これまであまり気にかけて来なかった事だが、この陰湿な匂いをまとったまま凪の元へ向かってしまえば、確実に彼女は光秀の言うひと仕事が明るい日の下で行われるようなものでない事を、一発で見抜いてしまうだろう。