第4章 宿にて
─────森の中、と左の二の腕…それから左肩の怪我に気を付けてください。
不意に、国境付近でのやり取りを思い出す。
本来ならば、どのような手段を用いても問い詰めるべきであった。
不可思議な事を口走り、尚且つ瞳の虹彩が深く沈んだ青色に変わるなど、これまではまともに取り合った試しはないが、流石に物の怪の類かと身構えもした。
だが、それでもあの姿を目にした瞬間、無理に吐かせるべきではないと己の内で無意識に歯止めを掛けていた事も事実だったのである。
心のどこかで凪が何者でもない、ただの小娘であればいいと、いつしか光秀の心の内で芽生えてしまったのは、彼女の真っ直ぐで飾り気のない言動と、時折見せる無防備さ故か、あるいは。
思考に蓋をし、自身の感情を一度片隅へ追いやった男は、そろそろ部下の報告があっても良い頃かと、身を預けていた家屋の壁から背を離した。
────…その瞬間。
「光秀さん!」
安堵と微かな喜色が混ざった声が男を呼ぶ。
驚きに双眸を見開き、大通りへ通じる方向へ視線を向けた先には、僅かに肩で呼吸をした凪の姿があった。
「お前、どうやって…」
堪えきれず零れたそれは、半ば無意識のものだ。
光秀の驚きなど気にせず、両手を膝の上について軽く背を屈めた凪が、溜め込んでいたものを全て吐き出すかのごとく、深い息をつく。屈んだ拍子に覗いたうなじや首元が薄ら色付いた様が、妙に視界に焼き付いた。
「余所見してた私も悪いですけど、居なくなったら探してくれたっていいじゃないですか…文字通り路頭に迷うところでしたよ…」
少し汗ばんだその様は、恐らく小走りか何かでここまで駆けて来たのだろう事を容易に予想させる。膝に手をついた体勢のまま、数度深い呼吸を繰り返してようやく落ち着きを取り戻したらしい凪が、向き合うように姿勢を戻した。
眉根を寄せながら、しかしどこか罰が悪そうにも見える凪の表情は、完全に迷子を恥じているそれである。
暫し言葉を失い、やがて瞳から驚きの色を消した光秀は、そっと音もなく彼女の背後からやって来た部下の姿を認めて、眼差しだけで説明を促した。
光秀の視線を受け、九兵衛が口元に柔らかな笑みを携えながら瞼を伏せ、緩く首を左右へ振る。