第12章 家賃
このままここで引き下がっては、目の前の男は再び文机に向かって仕事を始めるだろう。帰り道、思っていた以上に疲れていたと告げた光秀の言葉を思い起こし、凪は決意したかの如く、拳をぐっと握る。
「────…わかりました」
「……は?」
ぽつりと紡がれた凪の短い言葉を耳にし、片手を下ろした光秀は思わず虚を衝かれた様子で目を瞠った。
瞬く金色の眼を真っ直ぐに見つめた凪が、光秀の白い着物の袖を軽く握り、再度言葉を発する。
「まあ摂津で同じ部屋で寝てたくらいですし、何なら一回添い寝してるし、私みたいな小娘興味ないでしょうし…だから、取り敢えずもう寝ましょう」
「………お前は本当に、俺の想像の真逆を行くな」
「光秀さん程じゃないです」
様々な要因を天秤にかけた結果、凪の中では睡眠時間が満足に取れていない目の前の男を休ませる、といった方向へ振り切れたらしい。一度吹っ切れてしまえば切り返しの早いところが凪の良い点でもあるが、同時に他の思考を放棄するという点ではかなりの欠点であった。
それを今痛感している光秀が思わず零せば、ぴしゃりとした反論が返って来る。
さすがにその振り切り方はいかがなものかと考えた光秀だったが、凪はこうなれば聞かないだろう。
「灯り、消しちゃいますね」
「…今日に限って随分積極的な事だ」
「変な意味に聞こえるので、そういうのは無しです」
(……やれやれ、勘弁してくれ)
光秀の袖を掴んでいた片手を一度離し、立ち上がった凪は文机付近の行灯と机上の燭台の灯りを息でさっさと吹き消して再び戻って来た。思わぬ展開に肩を竦め、軽い揶揄を投げた光秀は、言い切られた言葉に内心苦笑すると、深々とした溜息を溢す。
当然、光秀はからかっただけであり、彼の褥は隣室に移動させてある。眠る場所にこだわりなどなかったし、そもそも今晩はあまり眠るつもりもなかったのだ。寝室などなくても構わなかった。
興が乗って発した言葉であったが、よもやこのような展開になるとはさすがの光秀とて想像出来ない事である。男を傍に寄せて眠るなど決して褒められた行為ではないが、それを秤にかけても自分を休ませる事を選んだ凪に湧き上がったのは、甘く苦い感情だ。