第12章 家賃
「違いますよ、快適快眠です」
「それはなにより」
瞼を伏せたまま光秀が小さく笑い、その掠れた吐息混じりの笑いが夜の静かな空気を揺らした。
襖一枚隔てているからと言えども、男のすぐ傍で快適快眠とは一体どうなのか、といった突っ込みはもはや二人の間には成立しない。襖一枚すらない状態で男女が寝ていたのだから、隔てるものがあるだけで凪にとっては寛ぎの空間である。
はぐらかされると思ったらしい凪は、文机の上に置かれた配置の変わっている文や書簡を一瞥した後、すぐに光秀へ再び視線を戻した。
物言いたげな彼女の眸が言わんとしている事を察した光秀は、片手を伸ばし、毛先が乱れた凪の黒髪を指先で優しく梳く。
「まだ明六つには早い。俺に構わずゆっくり休め」
「……光秀さんはいつ寝るんですか。むしろ寝る気あります?」
髪を梳く事自体を拒絶するでもない凪はしかし、光秀の発言へ緩く首を振った後、疑わしそうな眼差しで問いかける。
「ああ」
「絶対嘘です。これから寝ようかなって人の目じゃない」
口元へ微笑を乗せた男の短い相槌など信用ならないと言い切り、そのまま膝を擦るようにして光秀へ近付き、相手の顔を間近で覗き込んだ。
橙色の光が揺れる心もとない灯りの下、男の金色のそれを必死に覗き込もうとして注がれる漆黒の大きな眸が、偽りを許さないと言わんばかりに光秀を捉える。
「もう遅いし、休んでください。お仕事が沢山あるのは分かるけど…寝ないでやるより、寝てからやった方が頭の処理的に効率がいいですよ」
「なるほど、確かにそうかもしれないな?」
必死に光秀を休ませようとして来る凪の主張を耳にし、さらりと再び指先で髪を梳いた。密やかに感情を向けている相手が、同じ感情でなくとも自らの身を必死に案じてくれるというのはひどくむず痒く、そして存外悪くはない。
静かな笑みを浮かべたままで相槌と共に緩く首を傾げてみせると、凪はもうひと押しとでも思ったのか、黒々とした眸に仄かな喜色を滲ませて部屋を見回す。
「じゃあ寝ましょう。私の提案ですから、私がお布団敷きます。何処にあります?」