第12章 家賃
困ったように難しい顔をして思考を巡らせる凪をしばらく眺め、剥ぎ取られた腕を大人しく下ろした男は、開け放ったままであった凪用の部屋へ入り、文机の上へ手にしていた包み──凪のバッグが入ったそれを置くと再び部屋を出た。
そのまま彼女へ背を向け、自らの文机へ向かい、途中で足を止めると敢えて緩慢に振り返る。
「別に無理ならそれでも構わないぞ。……どうやらお前には、難しいようだからな」
「…なっ!?」
何処となく挑戦じみた眼差しをすっと眇め、口元だけで笑った光秀の些か小馬鹿にしたような物言いに凪の眉根がぐっと皺を作り出した。ひくりとその眉間に刻まれた皺を動かし、苛立ちを過ぎらせた彼女は足早に立ち止まっている光秀へ近付き、顔を上げる。
「いいですよ、分かりました!絶対光秀さんが喜ぶような事、見つけて定期的に実行してみせますからね…!」
「……ほう?それは楽しみだな。俺も一室を提供した甲斐があるというものだ」
今ここに織田軍の化け狐とまで称される男との、不平等なのかそうでないのかさっぱり分からない家賃契約が交わされた事などすっぽり頭から抜け落としてしまった凪は、さながら挑戦を受けて立つと言わんばかりにはっきりと宣言した。
凪の性格など手に取るように分かっていた光秀は、思わず零れてしまいそうな笑いを堪え、身体を彼女へ向き直し頭を軽く撫ぜる。
「家賃についてはすぐにとは言わない。せいぜいじっくり考えろ」
「そうさせて貰います。…じゃあ、改めて今日からお世話になりますね」
「ああ。取引きが成立したからにはあれはお前の部屋だ。好きに使うといい」
やはり片手で頭を撫ぜる光秀の手を引き剥がした凪は、しっかりと彼の前で頭を下げた。小馬鹿にしたような言動はさておき、けじめはしっかりと付けるべきである。律儀な彼女に対し、僅かに口元を綻ばせた光秀が瞼を伏せながら頷いて見せた。
なんだかんだあったものの、無事家賃交渉が済んだところでようやくひと心地つく事が出来たのか、凪が身を翻して襖が開けられたままである部屋へと向かって行く。
今日から自室となる光秀の部屋との続き部屋へ足を踏み入れたと同時、彼の空間と同じ香がふわりと薫ってつい無意識に表情を綻ばせた。
「お部屋、いい匂いですね」