第12章 家賃
拳が握られたままである凪の手首を掴み、自らの口元へいざなった彼女の手の甲へ唇を触れさせた。
音こそなかったが、薄く形の良い唇の仄かな潤いが皮膚へ染み込み、凪の肩が小さく震える。わざと吐息を彼女の手の甲へかすめさせるよう近付けたまま、視線だけを凪へ向けた男が、そっと眼を眇めた。
「……そうか。なら、お前が俺を癒やしてくれ」
「な、なんで…!?」
手首を捉えられたまま、咄嗟に疑問を返した凪の動揺を他所に、光秀は寄せていた顔を離してただ悠然と首を軽く傾ける。
「護衛の俺を、報酬として護衛対象であるお前が癒やすのは道理だと思わないか?」
「そんな報酬、聞いた事ないんですけど…っ」
「俺が今考えた」
くすくすと楽しそうに小さく笑う光秀を前に、凪はしばらく眸を見開いていたが、少なくとも彼の表情から先程の違和感が消え去った事を確認して内心安堵した。
確かに旅を終えて安土城に戻り、軍議を終えてからも恐らく、光秀は色々と密やかに奔走していたのだろう。凪自身は支度の合間などで休む事が出来ていたが、光秀のこれまでの対応を思えば何処かで休息を取っている印象などない。
(……でもそもそも癒やすって、何をすれば?)
これだけ女性の扱いに慣れている男相手に、果たしてどのような方法で癒やしを与えれば良いものかと思案した凪の姿を、光秀は柔らかな色の眼で見つめていた。
具体的に何をして欲しい、といった欲などなかったが、こうして自分の為に凪が思考している姿を見るのは、悪くない気分である。
手首を軽く握られた状態のままで、あれこれ思考しているだろう凪の意識を引き戻すよう、光秀は一度離した唇を再び凪の手の甲へ寄せた。白く薄い皮膚へ今度は軽く吸い付き、微かな音を立てた刹那、空いた反対の手が同じように拳を握ってとん、と軽く男の胸を叩く。
「光秀さんっ、人が真剣に考えてるのに!…もういいです、癒やしてみせますよ、絶対に…っ」
「それは楽しみだな」
唇をそっと離し、視線を彼女へ流す。自分の思案を邪魔された事に文句を言って顔を顰めた凪の眼が色々と吹っ切れたらしく、若干据わった。